古田徹也『それは私がしたことなのか:行為の哲学入門』
※2021年4月3日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。
伊藤亜紗『手の倫理』で「倫理」は「道徳」とは違い、普遍的なルールに依拠して行動できないときの迷いやためらいを扱うのだと整理した際に引用された本。てっきり倫理学の中心的な考え方なのかと思っていたが、本書によれば、倫理学自体はむしろ傍観的な立場から規範を打ち立てようとする傾向があるということだから、「倫理」と「道徳」の腑分けは古田による倫理学批判の文脈で登場する整理のようだ。
ウィトゲンシュタインが提示した〈「手をあげる」から「手があがる」を差し引いたときに残るものはなにか〉という問いを出発点に、〈「やってしまったこと」から「起きてしまったこと」を引いたときに残るものはなにか〉という問いに至る本。哲学や倫理学になじみのない人間でも読み進めていくことは一応できるが、やはり私には骨の折れる本だった。
しかし、本書を通じて腑に落ちたのは、哲学や倫理学がなぜ必要なのかというところだった。「手をあげる」から「手があがる」を差し引いて残るのはやはり「意図」とか「信念」であるが、それはあれ、これ、と指し示せるものではなく、語られるものとして存在するのだと結論づける。行為をすべて物理的な原因と結果だけに帰着させる語り方はたしかに可能だが、だからといって「意図」や「信念」を後付けで捏造したものとして退けることはできない、つまり物的過程と心的過程の両方の語り方がそれぞれにあるのだというのが古田の主張だ(と思う)。
その両方の語り方がなぜ存在し、それは一つに還元されないのかを、紙幅を割いて一つ一つ検討していく議論が面白い。少なくとも「我々はいま、科学をしているのではない。哲学をしているのである」(130ページ)がそれなりの説得力を持って迫ってくるくらいには面白い。
(新曜社、2013年)=2021年1月5日読了