大学4年生、夏。
スイカより桃になってきた最近の夏。みょうがとか大葉とか、気づいたら美味しいって思うようになっていた。胃袋の変化で年齢を感じる。
大学4年生、夏
大学4年生の夏、わたしが最近考えていることをぽつぽつと書きました。
夏、脳みそまで溶けそうなあつさと、懐かしさで胸がすこしだけ苦しくなる季節。時間があると逆に考えがまとまらなくて、noteもポッドキャストも曖昧で足元のおぼつかない自分が透けて見える。
いつも通り、問いの芽が育つのには時間がかかると思うので、一緒にのんびり見守ってくれる方がいてくれたらうれしいです。今日も読んでくれてありがとう。
ちなみに前回はこちら。あのときはまだ春だったんだなあ。
①問いはいつどこで生まれるのか
ひとつ目の問い。
これは、問いの生まれる場所とか、問いの生きている場ってなんだろう、という問いです。
哲学対話をはじめたときからぼんやりと感じていたことではあるんだけど、問いっていつでもどこでもavailableでいてくれるものではない気がする。
いま、この人たちと一緒だから考えられることとか、この場だから生まれてきたこととか、いま自分がこの状況だからこそ言えることとか、そういうものが確かにあると思う。問いがわたしたちを待っていてくれたり、逆に今はまだ無理って言われちゃったり、そういう意味で問いにはタイミングみたいなものがあるんじゃないかな、と思う。
わたしは哲学対話の「問いそのもの」とか、「問い出し」と呼ばれる時間が好きで、それは誰かの切実さに触れることができる瞬間だからだと自分では思っている。
問いの後ろに、その人なりの苦悩とか過去とか感情が隠れていて、それが全部詰まっているのが問いだと思うし、そういう全部を誰かに伝えるために一生懸命言葉を探して当てはめて問いの形にしていく時間が問い出しだと思う。言葉の選び方や伝え方、問いの切り取り方や切り出し方、そういういろんなところに「その人」が表れていて、美しいなあと思う。
でも、そうやって問いの世界の豊さに触れるたびに、問いとはどこから/どうやって生まれてくるんだろうとか、どうしてこの問いをいまみんなで考えることになったんだろう、ということが不思議に思えてくる。
だから最近は、問いが生まれる場所はどこにあるんだろう、問いの生きている場ってなんだろう、そんなことをなんとなく考えている。
わたしの問いは、いつも怒りとか悲しみとか、そういうところからやってくる。
世界のどうしようもなさに腹が立ったり、正しくなさに絶望したり、いやだ!って思う気持ちが湧いてきたときに、「それ」について考え始める。わたしの問いが立ち上がり始める。そこからわたしの問いが生まれる。
わたしの問いはずっとそうやって生まれるものだったから、みんなそうなんだとなんとなく思い込んでいたんだけど、最近やっと、問いの生まれる場所は人によってちがうのかもしれない、と思うようになって。
問いを立てることが難しい人はどうしてそれが難しいのか。人々は、当たり前だと思っていることにいつ・どこで問いを持つのか。他の人の問いはどこからどうやって生まれてくるのか。そういうことを考えてみたりしている。
ちなみに、「問いを立てるのが難しいのはなぜか」というテーマでポッドキャストを録ったので、興味を持ってくれた人はぜひこちらも聴いて意見をくれるとうれしいです。
*報告:最近アップルポッドキャストでも配信が聴けるようになりました(設定がんばった)!
②わたしの中にあるこれはなんだろう
ふたつ目の問い。
共感とか共鳴とか呼ばれたりするわたしの中の感情の動きみたいなもの、これってよく考えるとなんだろう、という問いです。
どこかで書いたことがあるかもしれないけれど、わたしはテレビ(とくにニュース)がすごく苦手で、
災害や戦争のニュースが目に入ると頭が反応する前に涙が出てくるし、甲子園やオリンピックの中継は数秒見るだけで喉奥がきゅっとなって息が苦しくなる。
他人の感情に影響されやすい、感情移入しやすい、というふうに今まで自分のことを説明してきたけれど、最近、その言葉では自分を説明しきれないような気がしてきて、わたしの中にあるこれはなんだろう/わたしの中で一体何が起きているんだろう、ということを考えている。
ちょっと前に見つけたいい感じの言葉は、【サバイバーズギルト】。
災害や戦争で生き残ってしまった人が抱く罪悪感みたいなもののことで、自分が生きていることに申し訳なさとか罪の意識を感じてしまうことを指しているという。
最初はすごくしっくりきて、たしかに、自分のきゅっとなる気持ちとか、そもそも生きていることに罪悪感を持ってしまうこととか、この言葉で説明できるかもと思ったんだけど、でも、自分がどうしてこういうものを感じるのかはまだわからないままでいる。
家族がちょっとクレイジーだったので、あの環境から逃げてきてしまった・逃れられてしまった自分に罪悪感を持っているのが原点なのかなあとぼんやり思ったり。身近に病気や障がいのある人たちが比較的多かったから、自分がのうのうと生きていることに許せなさがあるのかなあと思ったり。いろいろ思い出しながら考えている途中です。
最近見つけたいい感じの言葉は、【感情労働】と【共感疲労】。
感情労働は、その場とか状況において「適切な感情」というものが定められている労働のことで、たとえば申し訳ないと思っていなくても「申し訳ありません」って言ったり楽しくなくても笑顔を作らなきゃいけなかったりする業務のことを指す。
共感疲労は文字通りで、誰かの困難な状況に対して思いやりや共感を示すことで自分自身のこころが疲れてしまうこと。自分の経験したこと・感じたことでなくても、強いストレスやトラウマを受けることがあるという。
感情労働はなんとなくピンときたから残してみたけど、これが自分にどうピンときたのかはまだわかっていない。いまは、共感疲労とセットで自分を説明するのに使えるかもと思った、ということだけ。
共感疲労は自分に起きていることにぴったりだと思ったけど、でもこれもなぜ自分がそうしているのか/そうなってしまうのかはまだわからない。起きていることはそうかもしれない、でもそれはどう起こったんだ、というところが知りたい。
ただ、そもそも【共感】って言葉がちょっと得体が知れなくて、十分に説明しているって感じがしないのかも知れない、とも思う。
エンパシーとシンパシーってよくいうけど、どっちもなんとなくぴったりと自分に起こっていることを言い表している感じがしなくて、なんだろうなあと思っている。
わたしにとっては、相手に同調しているとか自分に置き換えて考えているとかではなく、「それが自分に起きるかも」センサーが強すぎる・鋭すぎる感じで、とにかく頭で考える前に心とか身体が反応するところが一番よくわからない。
いつもなんで泣いているのかはわたしにもわからなくて、だからいまそれを考えているところです。
ポッドキャスト紹介botみたいになってきたけど、わたしの罪悪感については以前こちらでチラッと話したので、リンクをシェアしておきます。気になる人だけどうぞ。
③わたしのしていることに意味はあるのか
みっつ目の問い。
インスタとか、このnoteとか、ポッドキャストとか、ぜんぶひっくるめてわたしのしていることに意味ってあるのかな、という問い。
最近、無力感に苛まれることが多い(正確にはこれを書く前まで)。
SNSをやっているとたまに、わたしって何がしたかったんだっけ、というのがわからなくて迷子になってしまうことがある。
わたしがやりたいのは誰かを啓蒙することでも、説得することでも、変えることでもない。でも、だとしたら、こうやって文章を書いたり写真を投稿したりすることになんの意味があるんだろう。わたしはなにがやりたいんだろう、何がやりたかったんだろう、と考えてしまう。
わたしはずっと、自分の考えや気持ちを他人に話すのが好きじゃなかった。ゆっくりじっくり考えたことほどそうで、わたしにとって大切なことほどそう。
それでも、哲学対話をはじめて、SNSをはじめて、自分の考えや気持ちをこうやって言葉にして誰かに届けようと思ったのは、誰かが勇気を出してさらけださないと、この人は味方だ!仲間だ!って気づくことができないんだと気づいたからです。
わたしは自分にとって安心安全だと思える人にしか話せないことがたくさんあったけど、でも、安心安全だってわかるためには相手がわたしに何かをさらけだしてくれないといけなくて、
だから、大丈夫だって思える強い人をわたしが探すんじゃなくて、わたしがそういう人になって誰かを待っていてみよう、そんなふうに思ったことがあった。
誰かが勇気をだして言葉にしなければ、これはなかったことになってしまうのかもしれないし、誰にとっても大切じゃないってスルーされてしまうのかもしれない。
そう思うと、わたしはその勇気ある誰かをただ待っているんじゃなくて、勇気ある誰か一人にその苦しさを押し付けるんじゃなくて、わたしが言葉にしなければいけないと思った。おこがましいけど。
だから、「こういうふうに思ってもいいんだな」とか、「こんな世界があってもいいんだな」とか、「この言葉が探してたものだな」とか、読んだ人や聞いた人や関わった人にそんなことを思ってもらえたらいちばんうれしい。
哲学とか哲学対話を伝えたい、みたいな気持ちは実はそんなになくて、知りたい人や必要とする人がいるならこたえようかなーという程度です。
自分の言葉で何かしたい、とかいう思いもあんまりなくて、ただ世界の美しさとか正しさとかそういうものを見つけるために自分にできることがしたいだけで。
だから言葉で着飾ったり美しく見せたりすることに本質はないと思っているし、それはわたしのやりたいことではないかな、といまここまで書いてやっと、言えるような気がしています。
意味ないかもしれないけど、無力だと思うこともあるかもしれないけど、たまにこうやって思い出して納得して、強くなっていきたいです。
おわりに
大学4年生の夏、わたしはこんなことを考えています。
前回より随分長くなってしまった。それだけ考え込んでいる時期ということなのかな。そういうことにしておきます。
このシリーズの次の更新は秋ですね。秋って捕まえるのがむずかしくて、いつも気づいたら冬に片足を突っ込んでいるような気がする。いつからが秋なのかなあ。
とにかく、秋をみつけたらまた書きます。ゆっくりいこう。
ちなみに(2回目)カバー画像のジェラートは紅芋味です。もう秋かも。
読書案内
前回に引き続き、最近わたしが読んでいる本を紹介します。内容と関連はあまりありません(あるかも!)