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言葉は受け取り方で形を変えてしまう


言葉は同じ言葉でも、受け取る心のあり方しだいでまったく違った形で伝わったりするものだなと思う。
自分に厳しい人は、応援も、自分を戒めるよう受け取ってしまって苦しくなったりすることがある。
だから私は日頃できるだけ、言葉を丁寧に扱いたいと心がけている。
誰かにエールを送りたい時、励ましたい時は、
大前提から伝える。
"あなたは充分がんばっているの知っているよ"ってちゃんと伝える。

私は自分の性質上どうしても、自戒して受け取ってしまいがちだから。
せっかく誰かが応援してくれているのに、自分の苦しみフィルターを通してしまうと、自分で重たくしてしまうことが多々ある。
日々反省しながら、これって本当もったいないなあと自分で思っている。
でもわかっていても、さあ、やってみようって今ここで即そのフィルター外せなくって。
かなわないものなのである。

例えば"がんばれ"って言葉。
"もっとやれ、足りない"って意味じゃなくって、
"がんばっているあなたをちゃんと見ているから大丈夫"って意味かもしれない。

もしかしたら、"これだけがんばっているのに"と思うかもしれない。
責任感が強いと、重荷となって受け取ってしまうのかもしれない。

だけど、実は、その人は、そのものは、
いつだって、大応援してくれている。
重箱の隅をつついて咎めてなんかいない。
たまには、怖くてもそう信じてみるのはありだ。

伝えてくれた人の思いはそのまま尊くて、重たく受け取る人の自責の思いが悪いのでもない。

"がんばれ"は"もっとやれ"ではないんだ、きっと。
(全部が全部そうでないとしても)

上記のような"自分はありのままで認められている"という大前提が、あるかないかで捉え方が違ってしまうのかもしれない。
また、その大前提を持っているか否かは、目に見えてわかるものじゃないから、言葉を交わすとき、時に齟齬が生じうる。

今度は応援ではなく、"こうした方がいいよ"等何かを指摘されたときはどうだろうか。
大前提がぐらぐらな私みたいな人間は、大きく心が動揺する。
(めんどくさいでしょう、大丈夫(何が)このめんどくささ人にはあまり見せないようにしている。)
でも、落ち着いてもう一度考えてみよう。
それは、
"あなたの今まで全部大間違い、全てやり直し!"って意味じゃなくて、"ここまではかなりいい感じだけど、ちょっとこの米粒程度の部分を変えてみたら、もっとあなたの頑張りが実を結ぶ近道があるので伝えてみた!"って意味かもしれない。

通す心のフィルターですごい差である。
また前者の意味で伝えられたとしても、後者として受け取るのは全く受け取り手の自由
だ。

応援にも、言葉そのものにも、また重たく受け止める人全てに罪はない。

だから、全部がもったいなくならないようにと。

ちょっとだけ、本当ちょっとだけ、自分の心のあり方を知って、たまにはあまり聞きたくない言葉をそっと手に取って信じてあげてみたりするのも悪くない。
そうふと思う今日この頃である。

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