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#95 ネット空間はジャングルだと心得る朝

本日6時30分起床。目標達成。頑張った。
昨晩は早寝にも成功する。日課として23時00分就寝を設定しているのだが、それが出来て良かった。
就寝に至るタイムスケジュールを細かく設定したのが良かったのだと思う。当然、頭の中ではなく紙に書いて考えた。その効果を実感する。
起床後は優雅に音楽を流し、日を浴びて悦に浸る。音楽や動画を早起きのご褒美=報酬にしてやることにした。私は今「パブロフの人」を育てている。つまり研究者・教育者になりつつあるということだ。この(抹香臭い)肩書が増えていく面白さよ。

偶然的に、朝一で胸糞悪い記事に遭遇してしまった。
気を抜くと殺られる。ネットもジャングルなのだということをど忘れしていた。
それで、件のその記事は大変攻撃的だった。
やはり、攻撃性は人を不快にするようだ。殊に私がそうしたものに耐性がないというのも要因としてあるだろうが、それだけではないと思う。
私が思うに、攻撃性の高い記事を書く者は、「クソ」という言葉を多用する傾向がある。
他にも「ゴミ」「クズ」なども頻出する。なんだかテストに出るような勢いだ。それは必修なのだろうか。
カタカナを使うのがコツのようである。「塵芥」とか「糞便」といった言葉では駄目なようだ。そこに精神的ギャップを感じる。
他にも、語彙の乏しさが特徴的だと感じた。まぁ、これに関しては人のことを言えた義理ではないのだが。
攻撃的な記事というものは、文章としては拙いものもあれば流暢なものまで、ピンキリではある。しかし仮に流暢であっても何故だか語彙に乏しく、クソゴミクズを乱用する。これが彼らの三種の神器だ。困ったときの常套句というか。うーむ、強烈過ぎて眩暈がする。つおい。
アジテーションのように文を書くから、口が悪く攻撃的になるのだろうか。不思議な人がいるものだ。
頭が良いのに頭が悪いというか。
頭が良くても頭が善いとはならないことに留意する。
頭の良さ=知的能力
頭の善さ=知的能力の活かし方(アウトプットの性格)
ということ。
頭が善い人は必ず頭が良いのだが、逆はそうならない。
私は頭が善い人の傍にいたい。それ以上は望まない。

私はよく自分の記事を「便所の落書」と呼び、現に自分の中ではそのようなものだと位置付けているのだが、それでも攻撃性とか排他性というものに関してはそれなりに気を使うようにしている。所謂、常識というやつだ。昨今「常識を疑え」とか「常識に捉われない」といった表現が多用されているが、その前に常識を知る必要性があるのだと逆説的に私は学ばされている。率直に言うと、非常識な者を面白いと感じた試しがまるでない。また「非常識で無慈悲で無礼な保守」という矛盾を孕みまくった謎の存在が目立つのも混沌とした時代の写し鏡だと感じる。まぁ、それは余談なのだが。
本当に不快な類の「便所の落書」に遭遇した今朝、今後私のnoteをそのように自称するのもどうなのか、真剣に考え直そうか、と思わされたのだった。


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