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【短歌と写真と日記】秋の陽はもの思う人たちにきっと似合いすぎる

目に見える器は大事
でも君が
捉えた時間はこぼれた想い


私は写真を撮るのが好きです(というわけで本日は、私の写真でお送りします)。仕事柄、作品を管理する上で撮る時もただ事務的にというよりは、この後ポストカードにしたらいいだろうなあと思う構図にこだわったり、

趣味のガーデニングで育てた薔薇やお茶会のために作ったスイーツを記録に残すときも、好きが溢れまくっているので、嬉々としてシャッターを押してしまったり。

今は重いカメラではなく携帯ですが、携帯のレンズは「もはや!」なレベルですし、エディットも楽々ですから、これもまた撮りすぎないようにしないといけません。

もちろん推しも。1/12スケールのドールハウスに撮影のために無理やり座らせたことも、未塗装の家具を公に晒してしまったことも後悔ないほどに、撮りまくったのはここだけの話。

と、推しエピソードはかなり蛇足でしたが、とにもかくにも写真を撮るのが好きなわけです。

でも、撮られるのは好きではありません。仕事の関係で、自分を出してのSNS投稿が多い時期がありましたが、できれば避けて通りたいくらい。けれど友人が知らないうちに撮ってくれていた中に、知らない自分を見つけてはっとする事があります。

ここでようやっと本題です(すいません、長い前置きでした)。そう、先日短歌にもした「自分を知らない自分」の続きとも言えますが、自分の知らない自分の表情というのはなんとも興味深いものがあります。

心許した間柄だからこその瞬間かもしれませんね。私が大好きな1枚、アンティークディーラーの友人が撮ってくれました。彼女のお店で素敵なショールを見つけて試着中の私。イベントでパキスタンの方にヘナタトゥーを描いてもらった夏のことです。

これ、上部を切り取ったわけではないんです。ここからなんですよね。彼女の目線なんです。私が無意識に笑った瞬間を見ていた彼女の。

私ってこんな風に笑うんだって感慨深かった。ああ、これが私なんだって納得できた。好きなものがぎっしり詰まった世界の中で、無防備でものすごく嬉しそうで、自分なんだけど、なんだか微笑ましくて仕方なかったです。

すごいですね。友人たちは私以上に私を知っている。そんな相手には、つまらない意地なんて張る気も起こりません。それどころか、より自由な自分でいなくてはと思うんです。大切な人との時間は、どこまでも私を開拓してくれる、大きな力に間違いありません。

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