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3分名句紹介エッセー 手袋と罵倒

 文章を書くという行為の裏には、「文章を誰かに読んでもらいたい」という願望が少なからず潜んでいる。だから著者が読者により評価してもらえるような文章を書きたいと思うのは当然であって、何ら恥ずべきことではない。

 問題なのは、読者の眼ばかり気にして書かれた文章が、本当の意味で面白いのかどうかと言う点だ。

 面白いのであれば何も問題はない。しかしつまらなかったとしたら目も当てられない。人生は有限だ。代替の利かない時間を使って、わざわざ苦心してまで作り上げたものが、「ごみ」だったということになる。生産性もくそもなく、やらなかった方がましだった結果になりかねない。そして残念なことに、文章を書いている人の大半がこちら側なのだ(もちろん小生も)。

 芥川賞作家、中村文則は作家を目指す人たちへのアドバイスとして「自分が受けてきた影響を文章に出すことが肝要」といった。彼自身、作家デビューするまでには紆余曲折があった。若さを生かして、青春小説を書けばデビューできると考え、有象無象の作品を書き綴り、しばらく落選を続ける日々を送っていたというのだ。

 『掏摸』、『教団X』、『逃亡者』等に見られるような、人間の内面を「えげつないほど」露わにしていく作風を誇る作者の発言とはとても思えない。彼自身、太宰治や安部公房、カフカ、ドストエフスキーなんかに影響を受けて文章を書き始めたという。ちょっと待ってほしい。これらの作家たちのどこに青春性の欠片があるというのか。結局、中村氏はそのことに思い至り、自分が影響を受け、自分自身が考えるようになったことを文章に起こすようになり、『銃』という作品でデビューすることになった――

 手袋に五指を分ちて意を決す 桂信子

  季語は手袋で冬。手袋には五指の収まるべき場所がきちんと決まっている。そこには決まった指が一つしか入らない。


全人類を罵倒し赤き毛皮行く 柴田千晶

  季語は毛皮で冬。赤い毛皮と言う反体制の象徴ともいえる女性が、全人類を罵倒しながら突き進んでいく。この女性は決して振り返ることはない。

 韻文にしろ散文にしろ、文章を書くとは結局、上記の2句のように決意をすることなのだ。そしてその決意とは、人におもねることではない。自らが感じたことを表現しきるという、自分本位な決意なのだ。その決意こそが独自性や普遍性を生み、人々の琴線に触れる、真に世の中のためになる面白い文章となる。書くことでしか救われない小生らが、この厳しい世界で存在価値を保つためには、それしかない。

 教えを請う事と、おもねることを混同していた小生の自戒としてこの文を記す。

 雪かきのまずはどこへと通そうか 亀山こうき


 

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