「コアラの脳みそ見たことありますか?」 l エッセイ
月曜日の午後14時半、遅めの昼食を摂るため事務員の休憩室に入ると今日から入社した女の子がいた。部署が違ったのでまだ全体挨拶の面識しかない。
女の子は手作りのお弁当を食べていたので、私は名前だけ自己紹介して離れた席に座った。彼女は僅かに頷くように頭を下げ、私が席に座った瞬間こう言った。
「コアラの脳みそ見たことありますか?」
ーー恋に落ちた。この子はぶっとんでいる。
しっかりとした挨拶もなく、離れた席に座った相手に対して初対面で言うセリフではない。というか、ある程度なかが良くても聞かない。コアラの脳みそ?
「いや、まだ一度もないですね」というと、彼女は淡々と話し始めた。
コアラにまつわる奇妙な話
「コアラは1日のうち20時間も眠っているんです。ユーカリの葉には毒があるからそのくらい眠っていないと消化できないんですよね。1日4時間しか起きていないから、彼らの脳みそにはシワが一個もなくつるんとしているんです」
スマホで検索した画像を見せてもらうと、確かにシワがまったくなかった。彼女は特に得意げな表情をするわけでもなく、スマホを手元に戻し卵焼きを一口食べる。そして続ける。
「コアラについて何か知っていることはありますか?」
なんでだか自分でもよくわからないのだけれど、私は彼女の期待に応えないとと思った。こんな変わった人にはそうそう出会えるものではない。そして、1年前にyoutubeで奇跡的にたまたまコアラのドキュメンタリーを観ていたことに感謝した。
「オーストラリアのとある地域のユーカリには毒がないらしいですよ。だからその地域のコアラはよく走るし、木にも素早く登るみたいです。シワに違いがあるんですかね?」
私は、身近にコアラ好きの友人がいたことに改めて感謝した。1年前に動画を観ていてよかった。
けれど質問が聞こえているはずの彼女は特に反応しなかった。私はぽぉっとした。不機嫌な理由以外で、こんなに会話を円滑に進めようとしない人は見たことがなかった。いったい会社はなんでこの子を採用したんだ。でもありがたい。私は彼女の不思議な魅力はそう長くは続かないと知っていた。
期間限定の魅力
たとえば小さな子どもが同じことを言ってきたら、まぁ「かわいい」というカテゴリーに入るだろう。すごくご高齢のかたが同じことを言っても(こちらが色々と推測し)結局はギリギリ「かわいい」と「面白い」のどちらかの枠内に入る気がする。
それ以外の年齢の人に、こんな風に、奇をてらう感じでもなく、何かを深く信じている人特有の真っ直ぐさで話されると、普通はすごく怖いのだ。だけど私は絶対に同じことができないので、それをさらっとやってのける人にしびれる憧れるなのだ。男女問わず、くらくらしてしまう。
自然淘汰ととある疑念
女の子はお弁当を食べ終わったあと、急に「私、基本的におやつしか食べないんです。朝も昼も夜も、おやつで生活しているので、職場のみなさんがお弁当食べてるのを見て尊敬しました」と言った。
彼女は自作のお弁当を完食した後にそう言った。
ーー間もなく彼女は社内で淘汰されるだろう。社会での不可思議な言動と、矛盾すぎる行動を、多くの人は許しはしない。会社という、身近な場所であると特に。
コアラが生存競争に敗れ、水を飲むことすらやめ、毒のあるユーカリの葉を食べるようになったように、彼女が追いやられる日はそう遠くない気がする。私は不思議な彼女にぽうっとしながら、どこか冷めた頭でそう考えていた。
そう思い、「だけど」と、はっとする。だけどこんなにコアラの生態に詳しすぎる私自身も、実は淘汰される側なのでは?
急に世界が反転した気がした。
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