沢山をあきらめてきた爽やかな大人たち 『君はそれを認めたくないんだろう』
「30歳にもなると、現実的に自分にできることとそうでないことが分かってしまって世界は狭まるんだよねえ。」
ファミレスのボックス席で、会社経営者のその人は当時19歳だった私にそんなことを言った。ほんのちょっとの哀愁こそ漂っていたものの、その声と表情はとてもさっぱりとしていた。
どういう文脈だったのかはもう思い出せない。ただ、その言葉がなんとも心地よく聞こえたことは覚えている。
その心地よさの訳が、山下賢二さんの散文集『君はそれを認めたくないんだろう』に収録されている一つのエッセイを読んで分かった。
このさっぱり感、前向きな諦念が、会社経営者の彼の言葉と重なる。
焦って実態のない「何者」かになろうとしなくても、どうせいつか何者かになっているのだ。もっと言えば、一昔前の自分にとってみれば今の自分もすでに何者かにはなっている。
これまでだってずっとそうやって生きてきたし、これからもそうだと思う。
なんたって大人たちが言うには、年を重ねていくうちに選択肢が減っていき、「もうこれしかない」なり「こんなところか」なり分かってしまう時がくるらしい。潔く、爽やかにあきらめる瞬間にきっとこれから幾度となく出会うみたいだ。
ならば。
今はもう何でもやればいい。何でもできてしまう。
気になることには足を突っ込んで、なんか違うと思ったら引き抜けばいい。
もしくは、突っ込んださきから追い出されたらいい。
それを繰り返して繰り返して、気づけばどこかしらに立っているのだろう。
何かにならなければと焦らなくたって、何かになっているほかないのだから。結局人は、一つ分の人生しか生きられないのだから。
世間知らずと言われればそれまでだが、大人たちのあのさっぱりとした佇まいを信じる今の私は、飛べてしまえそうなほど身軽である。