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フィルモア通信 New York

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#エッセイ

フィルモア通信 New York Seiji&Huberts going going gone.

フィルモア通信 New York Seiji&Huberts going going gone.

セイジ、ニューヨークタイムス、ぼくらの手

 セイジさんは日本の大企業から在米駐在としてニューヨークにやってきた。そして何年か後アメリカ永住権を取得して会社を辞め、四十歳を前にして料理の道に入った。当時アメリカでは最高峰の料理学校、ニューヨークアップステートにあるCULINALY INSTITUTE OF AMERICA 通称CIAは授業料も高く基本的に全寮制なので除隊補助でもないと自力でやるしか

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フィルモア通信 New York No 25 カレン・ヒューバート、ジャクリーン・ケネディ・オナシス夫人の赤いスーツ。

フィルモア通信 New York No 25 カレン・ヒューバート、ジャクリーン・ケネディ・オナシス夫人の赤いスーツ。

 カレンは文才があり、自分のレストランのマダムとして昼夜ダイニングルームを取り仕切りながら自分の本の執筆にも忙しかった。ぼくが早めのランチシフトでキッチンに入る頃に、犬のラルフと彼女は散歩から帰って来た。
 ラルフがいつも決まった所で立ち止まりくんくんやって用を足すのが彼のニュースペーパーを読むことなのだとカレンは教えてくれた。

 そうか、ニュースペーパーだったのかとぼくはかねがねニューヨークの

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Seiji’s Duane Park Cafe 最高の一皿

Seiji’s Duane Park Cafe 最高の一皿

リブアイステーキ、クリスピースケート、セイジ・マエダそしてレナート 

レナートは17歳の冬をニューヨークで迎えた。メキシコからの国境をどうにか越えてやって来た。

 デュエインパークカフェはトライベッカの南、ウエストブロードウェイをデュエインストリートの東に折れてすぐに柳の植え込みが目印となるアイリッシュグリーンにペンキが塗られた古いアパートメントの一階にあり、1ブロック西にデイヴィッド・ブレの

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フィルモア通信 New York No26 メリル・ストリープ

フィルモア通信 New York No26 メリル・ストリープ

 メリル・ストリープと女優たち。

 パークアヴェニュー東60丁目に移転したヒューバーツレストランは建築家、アダム・タハニーのデザインでレンの希望もあって日本の桂離宮の意匠を取り入れたアメリカのインテリ日本趣味がうかがえる造りだった。全てに高額な内装材が使われ、椅子一脚に三千ドル以上かけこのリノベーション総額は数ミリオンダラーといわれ、レストランインベスターのヒューバーツに賭ける期待とプレッシャー

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フィルモア通信 New York no24    PeterHoffman .    STRINGFELLOW.  それぞれの道

フィルモア通信 New York no24 PeterHoffman . STRINGFELLOW. それぞれの道

 長い旅を終えてピーターが日本から帰ってきてしばらくするとダウンタウンで新しくオープンするという高級ナイトクラブのレストランのエグゼキュティヴシェフとして腕を買われた。そのナイトクラブはピーター・ストリングフェロウがオーナーでイギリスのミュージック業界の後押しが有るらしかった。

 どうして高級ナイトクラブとはいえディスコテックみたいなところで料理するのかと、ぼくは不思議だったが、ヨーロッパの高級

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フィルモア通信 New York  No23 Charlie Chan

フィルモア通信 New York No23 Charlie Chan

チャーリー・チャン、シャーリーテンプル、ステットソン。

 ぼくは次の二ブロック先の角を曲がり自分が住むストアフロントへ車道を横切りながら、チャールスを思いだした。何か月か前にぼくはここで家から出る時、東四丁目をセカンドアヴェニューの方にゆっくり歩いてきた彼に会った。

 半年ぶりくらいに会った彼は痩せてはいたが赤いセーターも似合う相変わらずかっこいいダンディだった。「チャールス!」と声をかけると

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フィルモア通信 New York No20 solitary man

フィルモア通信 New York No20 solitary man

solitary man 

独りで過ごす夜の長さがつらいときもあった。

 レストランで仕事をしているときは自分の考えを必死にクルーに説明し、どうする事がベストの皿に料理できるか考えた。素材の事を考え他者の味覚の事を考えた。

 深夜寝る前に頭に浮かんで来た茄子、どうしようこうしようと想像して朝になり起き上がって、そのまま夜通し空いているコリアングロサリーで茄子を買い、ヒューバーツのキッチンに誰

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フィルモア通信 New York No17     流れる水

フィルモア通信 New York No17     流れる水

流れる水

 天ぷらの修業のつぎは鰻の捌きを覚えようと思い立ち、中央市場の老舗の川魚店に見習いに行くことにした。
朝四時からその捌きは始まり、六時には終わるのでそれから仕事に行くことになった。その川魚店には鰻捌きの名人と言われる人がいて、多くの京都の料理屋がその名人の捌いた鰻を仕入れに来ていた。

 名人は初老の痩せた男で、子供の頃からこの道一筋らしく、まな板の位置と右手の包丁使いの動きに合わせ

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フィルモア通信 New York No16 五十年の鰻、十六歳の天ぷら

フィルモア通信 New York No16 五十年の鰻、十六歳の天ぷら

五十年の鰻、十六歳の天ぷら
 ソーホーのミキオさんのその店は昔、映画ゴッドファーザーの原作者、マリオ・プーゾが彼の著作を書いていたこともあるという静かな下町のイタリアンカフェを日本料理屋に改装した、オーナーのミキオさんの美的センスが座布団やメニューブックの造りに顕れている、地元ソーホーのギャラリーオーナーやアーティストそしてミュージアムのキューレーターたちが通ってくる小さな日本レストランだった。

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フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

フィルモア通信 New York  No10     牛ヒレ丸ごと1本

 レンとピーター、そしてぼくらが働くシフトが組まれたある夜、最初の混み合う時間にアペタイザーを出し終わり、レンとピーターがメインディッシュの準備に忙しい間、ぼくはダウンステアーのプレップキッチンに降りて行き、昼の間にニーナが下拵えしておいた明日の予約のランチパーティーに出すビーフウェリントン用のテンダーロインを手に取った。
 

ビーフのことはあまり知らなかったし、テンダーロインはアメリカでも高価

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フィルモア通信 New York NO7        ダグマール

フィルモア通信 New York NO7     ダグマール

 スカンジナヴィアの名前のとおりにダグマールは北欧女性のように肌が白くブロンドの髪が輝いていた。ブラジル人らしく陽気で、笑うと青い瞳が細くなった。

 ローウァーイーストサイドの英語学校で知り合ったころ、ぼくらは二人とも仕事が無かった。彼女はブルックリンに住んでいた。
 
 ぼくよりも数段英語が出来たが仕事は見つからなかった。お金を貯めてカレッジに行きジャーナリズムを勉強するのだと言っていた。サン

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フィルモア通信 New York No6  アメリカの夜 

フィルモア通信 New York No6 アメリカの夜 

 ベトナム戦争時の外交補佐官だったドクター・ヘンリー・キッシンジャー氏のパーティーがあったのは、とても冷える冬の夜だった。
 
 そのパーティーのために作ったラムのローストミント風味、胡瓜と海老のシェリーサラダ、ブルーチーズのスフレなどを次々とダイニングルームへ送り出し、オーブンやスチーマーはうんうん、シューシューと働き、
背の高いシャンパングラスが音をたててキッチンに運び込まれたりするなか、オー

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フィルモア通信 New York 80’s No4

フィルモア通信 New York 80’s No4

 九月のとても暑い日、JFK空港に着いた。次の日からまたヒューバーツレストランとニューヨークの生活が始まった。
 
 レストランの経営は厳しかった。オーナーの望む料理は他のレストランの誰も作っていない新しい料理でアメリカの特にニューヨーク近郊の農産物を使ったシンプルで健康に配慮した伝統的なアメリカの地方料理をエスニックのスパイスや新鮮なハーブを使って伝統をリメイクするという、ぼくにはまだよくわかっ

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フィルモア通信 New York 80`s No3

フィルモア通信 New York 80`s No3

 ヨーロッパには四ヶ月いた。たくさんの若者たちと知り合った。今から兵役に行くスペインの二十歳の男、イスラエルの女の子二人もこれから兵役に就くと言っていた。ドラッグを持ち歩くスウェーデンの若者、どこもかしこもドラッグだらけさ、お前もやるかと聞かれた。

 アイルランドでヒッチハイクをした時は家まで食事によんでもらい、神の恵みについて話してもらった。列車の中で知り合ったり、コンサートで知り合ったして、

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