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『THE NEW COOLNORTER賞』エッセイ部門作品の講評です。

今日はずっとどこにもログインしないで

ひとつのことを考えていた。

のど元になにか言葉があるようで

みつからなくて、こみあげそうなんだけど

でない。

でもすごく、もどかしいけどそのもどかしさ

さえ享受するつもりで頭の中に

むずかしさとわかりやすさ というふたつの

キーワードと午後はずっと一緒にいた。

共感しましたという一言だけで、その作品の

良しあしが決まってしまうこの世の中にあって

このふたつのキーワードはほとんど命題に

近い。

この作品は、みこちゃん自身がバイオリンの

奏者として経験していた時間を通して

じぶんにとってのむずかしさとわかりやすさに

ついてが細やかに考察されている。

演奏者としての実感が、みこちゃんのからだと

指と心をとおして描かれる。

技巧を学びながら、その技巧を追い求める

ことに夢中になっていたバイオリン奏者で

あった初期の頃ともう少し時間が経って

同じ曲を弾いた時のちがいについて。

2度目は技巧も学んだ後であるけれど、

ただ楽譜を読み解きながら弾くことが

テクニックだけで組み伏せることでは表現し

得ないむずかしさがあったと、告白する。

ここまで読んでわたしはとてももぞもぞ

した想いに襲われる。

この感覚わかる。

これすごくわかるんだけど、ことばに

することが難しい。

みこちゃんはこの後小説でも同じことが

見受けられるねって、読者に言葉を投げかけて

くれる。

シンプルに語らずに難しい言葉で逃げる

小説ってよくあるよねって。

あるあるって思いながら、じゃあわかりやすければ

いいのかって、それも違うよねって。

わたしはみこちゃんのその文章と会話している

みたいに読みながら以前聞いた言葉を思いだす。

海外でも翻訳されて売れている作家を例に

とり、ある作家は、

「僕はあんなふうにマネーロンダリングみたいに

言葉をロンダリングしたものは書けないんですよ」

と。

その時わたしはとても腑に落ちた。

そういうことだって。

ロンダリングされた言葉。

なんだか感覚的にそれをキャッチした。

そしてその作家はふたたび続ける。

「語られているものを語り直すんじゃなくて

語り得ないものを表現しつづけることが

作家にとっての矜持じゃないかな」

みたいな話をされていた。

この話はわたしにとってみこちゃんが以前

書いていた記事から受けた印象ととても近い

ものを感じた。

 文章の洗練でこぼれ落ちるものの中に、本当に伝えたいことがあったはずなのに。悩みを相談する時に言葉にならない叫び声を、ありったけ分かりやすくしようと泣きじゃくりながら伝えようとしたはずなのに。その言葉にならない断片に、本当の魂があったのに、わかり易い文章に整理してしまったら、それが消えてしまう。

これはわかりやすさに、気を配りすぎていると

大切なものをぼろぼろと取りこぼしてるよって

いうことを説いてくれてる。

そして、最初のエッセイに戻った。

むずかしさとわかりやすさということについて。

あらゆる信頼できる表現者ならば、このことに

ついては一度なりとも絶えずじぶんに

問いかけていることなんだと思う。

では、むずかしいからいいと言っているわけ

でも、わかりやすいからだめと言っているわけ

でもない。

このふたつは、二律背反しているわけじゃ

ないんだよって教えてくれる。

余韻を感じる演奏や小説や絵画ってある。

観客はその技巧やそのプロセスを誰もが

知り得ているわけじゃないのに、なにか

言葉にしえないものを感じる。

これってなんだろうって思う。

人がなにかを観たり聞いたりした時に

こころざわめく感情。

つまりなにかを感じるということ、

不可抗力のように揺さぶられるということ。

余白までをも感じたいという気持ち。

そういうとき人はなんかわかったって

思うものなのかもしれない。

わかりやすいをわたしなりに訳すと

どうしようもなく感じ入る心、やさしさに

ふれたような心のこと

なのかと思う。

そしてみこちゃんはこのふたつ、

むずかしさとやさしさが相反するものじゃない

ことを次のように言葉を尽くす。

 みこちゃんのイメージでは、他人から理解されない孤独な難解さを、やさしさをもって自分の手で助け起こすことかな。ミイラ取りがミイラになるように、時に深淵は自分の足元を脅かし、私をあちら側の世界に連れて行こうとする。でも自分が難解さに飲み込まれてもかまわない覚悟で手を引っぱる。

ニーチェの言葉

深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。

あの言葉、深淵をこんな文脈で読んだのは

わたしは初めてだった。

あの深淵こそを恐れるなってみこちゃんは言う。

ミイラ取りがミイラになる覚悟でのぞめと。

これは表現するものへのエールのような

言葉の贈り物のような気がした。

みこちゃんのこのエッセイを読みながら

エッセイを書くとはという問いもまた

ふたたび浮かびあがってきた。

経験をもとに実感したことを行間ににじませ

ながら、そこだけでは終わらずに、辺りを

見回してじぶんの言葉をつかみ取りながら

答えを見出してゆく。

芸術家が生まれて表現したいものに出会えて

迷いながらも道を進みつづけ晩年をむかえても

なお創作意欲を失わない芸術家として生きてゆく

とは、たえずじぶんを信じながら時には

疑いながらあゆんだ道のりを作品に昇華させて

ゆくことだと教えてくれる。

最後にみこちゃんはこう言い放つ。

 芸術をなめてはいけない。それは、むずかしさとわかりやすさに対しての、作者の生き様だからだ。

エッセイを書くとは、自分を省みながらも

否定するだけ肯定するだけではなくて

その対峙している物事に対してあきらめる

ことなく言葉を尽くしてゆく姿勢のこと。

それがエッセイを書くということなのだと

強く感じた。

う~みこちゃん。このエッセイを読み解くには

わたしには正直荷が重かったのだけど、

書くという態度を教わった気がしています。

このエッセイはこれから先もわたしの中の

問として生き続けるそんな予感をひしひしと

感じています。

とびきりむずかしかったけど、このことに

ついて考える機会を与えてくれたことに

心より感謝申し上げます!

そして、THE NEW COOLNORTER賞の

エッセイ部門に応募して頂いてありがとう

ございました!

8月15日まで募集しています!

どうぞよろしくお願いいたします。



■応募方法
その1
応募記事に、以下ハッシュタグを必ずつけてください。
#第3回THE_NEW_COOL_NOTER賞_ 8月参加

①ご応募いただけるのは、お一人様月に1作品までです。
②月をまたいで、他のテーマに複数応募することは可能です。
例)7月に1作品、8月に1作品応募 → 可
  8月に2作品応募 → 不可
※つまり、7月の文芸部門に参加いただいている方でも、別記事で8月のエッセイ部門にご参加いただくことは可能です。
③有料記事は応募不可です。

その2
応募の際は、応募記事とは別に、THE NEW COOL NOTER賞へ参加したことについての紹介記事を投稿してください。
紹介記事には、THE NEW COOL NOTER賞の以下のロゴを使用していただくようお願いいたします。

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それが確認できた時点で、エントリーとさせていただきます。

※前回までと同様、過去記事タグもすべて精査しますので、過去記事にタグを張っていただければ即エントリーです。

※今回は、第三回『THE NEW COOL NOTER賞』に応募したぞ別記事とワンセットでお願いいたします! できればお友達にも勧めていただけたら嬉しいです。




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ゼロの紙 糸で綴る言葉のお店うわの空さんと始めました。
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊

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