父に似ていないはずなのに、父に似ているような気がした。
もう何年も前の雨の七夕の夜。
渋谷にある劇場のAの25という席で
ひさしぶりに芝居を見ていた。
舞台は沖縄にあるリゾートホテルのバー。
カウンターのむこうには、酒瓶が整然とならび、
バーテンダーを演じている中年の役者が
世にも奇麗なカクテルを
澱みなく作っていく。
かつて師弟関係にあって恋愛関係でもあった
年の離れた男女がストーリーの軸となるのだが、
いわば聞き役であるバーテンダーの
佇み方がよかった。
飛行機にひとっとび乗ってしまえば
彼のいるバーを探しにゆきたくなるぐらい、
空間と人の立つ境目がみえなくなる感じの
馴染みかたに酔ってしまいたくなるような風情。
生身の人間が目の前に居て語ることばは、
たちまちわたしの中に棲みついてゆく。
からだの隅々まで浸透してゆくような
バーテンダーの声は、限られた時間の中で発生し、
そして、瞬間に消えてゆく。
なのにわたしたち観客の中には、架空の時間が
和紙に墨が吸い込まれてゆくように
余韻を残してゆく。
虚構だと知っているのにその物語を
じぶんの一部だとうっかり信じてしまいたくなる
瞬間を持っている。
舞台と云う場所はとっても危険だなぁと、
そんなことを思いながら、いくつもの台詞や
シーンをフラッシュバックさせながら
夜中のタクシーを待っていた。
映画や芝居を立て続けに見ていると
ときおり虚構と虚構のあいだに
ほんの微量の日常がはさまれているような
妙な感覚に陥る。
相当に毒だなぁと思うのに
その毒をもっともっと飲み続けたいと思ったりする。
そんなことは不可能に決まっているのに
もうどの時間もぜんぶ虚構に塗り込めてしまいたい
誘惑にかられるのだ。
その頃いちばん好きだった役者さん、國村隼さんが
演じていたバーテンダーの作るカクテルも
グラスの縁に添えられたライムもほんものだ。
朝のコーヒーをたてるシーンでは観客席にまで
そのコーヒー豆の香ばしい匂いが漂っていた。
演じることと、なまものであることのバランス。
ほんものとにせものの配分が、すこぶる
ずるい。
彼がバーの客である彼女につくるカクテル、
ブルー・ジン・リッキーは舞台の上で
ほの青く光っていてとても幻想的だった。
あのお酒が飲みたいと思った。
ふだんカクテルが飲みたいなんて
そんなこじゃれた思いはほとんど過らないのに
舞台のお酒を見ていたら、むしょうに欲しくなって
仕方がなかった。
現実にはどんなにすてきな照明の下の
バーカウンターでもカクテルがそんなに
きらきらしてないことは重々わかって
いるのに、あれが飲みたいと思った。
いそいそと舞台という甘い罠にひかかっている
じぶんを呆れながらもわたしは
ほんとうの時間のすぐそばに空いている穴に
うっかり入り込んでしまったようなそんな
もうひとつの時間を存分に楽しんでいた。
あの時わたしは舞台を愉しむってこういう
ことだと初めて知った気がする。
原作者の野沢尚さんももういらっしゃら
ないんだなって思うと寂しくなるけれど。
あの日舞台が終わった後、野沢尚さんは
訪れたお客さんひとりひとりに
ありがとうございますと深々とお辞儀をして
いたその姿が今も忘れられない。
舞台に限らず物を創る人の姿勢をそこに見た
わたしは彼からお辞儀を受けた時とても緊張
したことを覚えている。
そしてあの舞台に出演されていた大好きな
國村隼さんのCМをみていて、不意をつかれて
リビングで泣いたことがあった。
泣いていたら、母がぼそっと言った。
母はわたしが泣いているときもそっとして
おいてくれない。
國村隼さんって、パパに似てるねって。
パパとはわたしの父で、つまり母が別れた夫のことだ。
未だに私たちは色々な思いを抱えながらもしぜんに
なぜかパパと呼ぶ。
似てないよってすごい腹が立った時見たいに
言ったけど。
ひとりになって録画してあるそのCМをもう一度
深夜に見てふたたび泣いていたら。
悔しいけど似てるかもって思った。
それから彼を不意打ちにテレビで見かける時
父がそこにいるような気がして不思議な
ざわつく気持ちが芽生えるけど。
疑似的な感情を國村隼さんに抱いているのかなって
近頃思う。
父への感情がいまやわらいできているのが
自分でもわかる。
近頃この大好きなドラマをみてもその後ろ側に
父をみているような気がしている。
ほんとうは舞台を見るとは、どういうこと
なんだろうってことだけを書きたかったのに。
こんなに父のことを書いているのは何故だろう。
昨日ひさしぶりに電話で父と会話したせいかも
しれないけれど。
リトマスの 色がどっちに 転んだとしても
いつの日か おとなになって しまうんだって
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