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プリンスへ捧ぐその熱量。「推し」では語れないアーティストへの愛し方を知った。
とてつもない想いに触れた時、気持ちはふるえる。音楽って不思議だ。音はずっとそこに立ち止まることはないのに。捕まえようとしたそばから、逃げてゆく。
でも捕まえられなかったと思ったその音は、もうすでに自分の心につかまってしまって、ずっと離れられない。
この体感という経験はなんて至福なんだろう。
でも世の中にはほんとうにその音につかまってしまって、その楽曲がひとりの人生の足先の向かう方向まで決定づけてしまうことがあることをこのコラムで知った。
憧れは歩みを止めるけど憧れているパーツをずっと抱きながら、じぶんの人生に多大な影響を与えるアーティストと共に伴走している。
そしてそのプロセスをこちらのコラムで知ることになる。
執筆者二重作拓也氏のこの行動力はすさまじい。
心が動くと身体が動くそして再び心に帰ってゆく。
二重作氏を動かすその産みの親は、愛なのだと思った。
彼にとってその愛を捧げる相手はあの「プリンス」だった。
そのベクトル、尋常じゃないぐらいの想いがほとばしる。読ませて頂いているだけで、なぜか心がふるえる。
「彼以上に強く、大胆で、クリエイティブな精神を持つ人はいない」と公式にコメントしたバラク・オバマ第44代アメリカ大統領、「抑圧への反乱と社会の最も弱い者の保護を、自身の芸術に注ぎ込んだ」と指摘したプリンストン大学のコーネル・ウェスト教授など、時代を動かしてきた政治家や思想家たち。
そういった国境や人種、文化を超え、あらゆるバックグラウンドの人々に、多大なる影響を与えてきた芸術家。それが「プリンス」です。
プリンスはわたしも20代の時に体験して、その妖艶で今までみたことのないパフォーマンスに魅入られているのに戸惑っていた。直視したいのに直視していいのかどうかわからない。
すき過ぎると、一度離れたくなるように。受け止め方がわからなかったのだ。すきなくせに。
爬虫類的魅力がたまらんねって弟とMTVみてふたりはパープル・レインから好きになった。
いまだ鮮烈なサウンドと共に放たれるプリンスの言葉が、受け取った人々の心に深く響くのは、葛藤、苦闘、挫折、試行を何度も経てきた「実践者・プリンス」の心の奥底から発せられたものだからでしょう。
「実践者・プリンス」に魅入られた二重作氏は1985年に彼の楽曲に衝撃を受け、その4年後1989年には地元でLiveを初めて浴びる。その後も、ミネアポリスにあるプリンスのペイズリーパーク・スタジオでのイベントや、映画『パープル・レイン』の舞台となるファーストアベニューでの本編ライブ後のシークレットギグまでをも体験したと綴られている。
こんなふうに文字にしてしまうと数秒で読めてしまう言葉の中にわたしは、思いの熱量を感じた。熱量という測ることのできな思いは、二重作氏が海を越えてまでその思いを届けようとした彼が移動した距離と比例すると思った。
1993年、「プリンス」という名をまるで今の炎上商法のようにみずから葬っていた彼は言葉に発することができないアイコン、企業のコーポレントアイデンティティ(CI)のような自分のイメージを再構築していた。
そんなプリンスの来日公演が決まることを知った1996年。
高知で医大生になっていた二重作氏は全日程コンプリートを自分の中で誓う。
え!とまず思う。聞き間違えたかと思った。熱量半端ないって。友達だったらどういうこと?意味わからんのだけどって絶対言っているぐらい、図抜けたとてつもない行動力だと思った。
誰もこの熱量には勝てない。
医学生の大変さは身内から聞いたこともあるから、その中でそれを制覇するって今もって想像が追い付かない。
高知から東京に出て、まずは日本武道館2days、大阪に移動して大阪城ホール、さらに西へ、福岡国際センターへ。そこから東京に戻って、再び日本武道館2days、最後は横浜アリーナ。
この行程を遠征しようと決意して実践した、そこまでの熱量を体現しようとする人には祝福の雨が降り続ける。
偶然と言ってしまうにはもったいないぐらいの出来事に遭遇する。
大阪のとあるホテルにいた時にとてつもない出会いを彼は経験し、その時も彼らに自分の勇気を委ねる。
そして福岡である公演の後のアフタパーティーを請け負うことを提案する。
もう怖いぐらいにひとりの若者の人生が動いていることを読者であるわたしは目撃する。
そして二重作氏の故郷でもある福岡をはじめ北九州市などでのプリンスの公演は彼に3度も奇跡をもたらす。
サプライズという名の奇跡。でもそれは彼自身が引き寄せた幸運だったような気がしてならない。
1999年に医学部を卒業した二重作氏はふたつの夢を生きたいと思っていた。夢を叶えるためのその根底にはプリンスの言葉が礎になっていた。
「研修医として学びながら、極真カラテの全日本ウェイト制に出場する」という目標を掲げ戦績を得た二重作氏は医師としての知識と経験から、夢である格闘技と医学を橋渡ししたいという思いに駆られたどり着く。
「格闘技」と「医学」。
この一見、異なる違う線路の上を走って時折近くにいるようなそんな存在のふたつをひとつにしたいという思いは、
思えばプリンスが「異質な2つの概念をひとつの言葉で結んで新たなコンセプトを提示しては浸透させるという卓越した「匠の技」をもっている」というプリンスの哲学にも、重なる。
二重作拓也氏の人生はプリンスと共にあるとしか思えないこのコラムはまるで音楽のようだ。
読者であるわたしたちはプリンスの言葉にもあるように
「キミはキミのダンスを踊れ」
と教えられている気がする。
読者の心をゆさぶる音楽のように、その熱い想いと行動力がわたしたちの何処かに刻まれてゆく。
プリンスがこの世からいなくなってしまっても、彼の想いはプリンスにはじめて出会った中学一年生だった1985年からずっと伴走している。そして夢を具現化している。
これほどまでに「好き」を高めた人間をわたしは知らない。
そしてプリンスに受けたギフトに「救われた」彼は今もその恩返しを続けている。
わたしはこのコラムのあまりにも衝撃的な行動力に対してそれを形容する言葉を持ち合わせていない。拝読しながらただただ震えていた。
音楽を耳にした途端、「ここではないどこか」へ連れ去られた経験はそっくりそのままこのコラムの言葉に感じていた。
琴線に触れるという表現があるけれど。身体のなかの琴線の線がどこにあるのかがわかるぐらい、二重作拓也氏が綴られた言葉を体感していた。
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