人生が、マンガのコマのように過ぎてゆけばいいのに。
久助は、通学に使っている如意線の車窓は、マンガのコマだって思うことがある。
思うことがあるっていうのは、違うかもしれない。思おうとしているのか、日常のややっこしいことをフィクションのように眺めてしまうことにして、こころの平静を保とうとしている。うっかり死なないために。
走っている時は、そのコマが横長に伸びている感じで、流れていく。
停車駅で止まると、開いたドアのコマは突然途切れて、座席の後ろの窓のコマに人々が描かれる。
人のいないコマは殆どなくって、どこかしらに人々が配置されてゆく。
そこに登場するのはたいてい急いでいて、社会のいろいろなしがらみをたっぷり背負ったような人々で。
久助と同じ他校の中学生もいる。前は向いているけど斜め四十七度くらいの角度、若いってぜんぜんうれしくないって表情で歩いていたりする。
でもオジサン達に言わせるとそれが若いっていうことらしい。
今、ちらっと車内を見渡すというか、視線をずらすっていう感じだけど。
マスクのムコウの視線は無防備だから、ちょっとはじかれた気分になる。
みんなほんと、あの顔もあの顔も昨日もそこにいたし、おとといだっていたけど、ってみんなスマホパラサイトだし。
久助は電車の中でスマホすると酔ってしまうのでなるたけしない。
だから、そこにいる誰かと挨拶するなんてことはないし。かと言って挨拶したいわけじゃないけれど、どうして、こうなんだろう。
平日の雑踏とか満員電車の中って殺伐としてみんな、知らねーよカンけーねよみたいな雰囲気。
みんな仲良くした方がいいとかっていう話じゃなくてね。
こうやって毎日馴染んだ電車でさえ、敵地に乗り込むみたいな風情に厭世的な空気がじぶんの口から鼻から、瞬く間に致死量近くまで入り込んでしまうようで、いやだっていうか、なんとかしろっていうか。
ある日の停車駅、翼4丁目。
停まると、開き切ったいたドアのマンガのコマには、そこにホームにいる人々が配置されてゆく。
その日は、荷物を背負っている主体がみえないくらい、荷物だらけのおばあさんがいた。
恐ろしく速く前かがみで歩いてゆく。あっという間にひとつのコマの中から消えた。
その隣には父親とその娘と息子らしき子供がいた。
幼稚園生らしかった。制服を着て帽子をかぶってマスクをしていた。
女の子が持っていたカンカンの中のキャンディを、フロアにぶちまけてしまった時。
父親がすぐさましゃがんでそれをひとつひとつ拾って、もう食べられないねってことを女の子に話していた。
マスクの子供は、すべて知っているよっていう眼差しでうんと頷いて、父親がキャンディを拾うのをじっとみていた。
お兄ちゃんらしき子が女の子の頭を一瞬撫でる。
大丈夫だからねっていいながら父親は立ち上がって、子供とふたたび手をつないだ。
電車が走りだすと、ときおり人のいない絵がそこに描かれて、時計と停車駅の名前とモールの広告の看板が倦んだように、過ぎ去って行く。
世界は遠くにはない。ここにある。今この時代に一瞬、中学生であるこんな日々を物語の始まりのように感じようとしていた。
ヨコかける タテのせかいは はてしない闇
去年の ふたりの春は いまなんコマ目?