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AI画像と文章がゆるぎなく一対一で向き合っている。(#創作大賞感想)

いつもわたしは少し不思議になる。

みんな言葉をどんなふうに読んでいるんだろうと。

わたしは癖なのか、小説の言葉を目で追っている
とき、そこには脳内でビジュアルを変換させながら
読んでいる。

ゆえに、わりと描写のこまかい作品がすきだったりする。

書く時も然り。

書く時は頭の中にある映像を言葉に翻訳している。

そういう経験をはじめてしたのは『マディソン郡の橋』
だった。

とつぜん読むスピードで映像がわたしのなかに立ち上がって
きて、今脳の中で何が起こっているのかとすごく不思議に
なっていた。

それから脳内での映像化できるものが好きになるような
傾向があった。

言葉が言葉だけでそこにある。

言葉がなんの装飾もなくほんらいの言葉の姿で
そこに立っているのは、難しいことのように
わたしは思うのだけど。

詩人の魂が足りないのでそこはわからない。

今回そんなことを考えながら、noteの記事ならではの
文章と画像をいつもやわらかに溶け合わせながら
作品を発表されているnoterさんに触れてみたいと
思った。

ビジュアルといつも対等の距離で作品を創作し続けて
いらっしゃる春永睦月さん。

対等という表現がふさわしいのかわからないけれど。

ビジュアルと言葉の距離感と言われると。

それはいつもあると思っている。

ビジュアルはどうしても、目につくものだし、みなかった
ことにはできない。

それだけインパクトが強い。

ついつい頼りがちになりたくなるし。
言葉の足りないところを映像に助けてもらいたくもなる。

でもそこには言葉の説明だけでは収まらない世界が
そこに繰り広げられていたとしたら、読み手の方の
脳内はとても楽しくなるような気がする。

春永睦月さんの作品群を演出しているAI画像たちは
偶然の賜物ではない、ひとつの作品として、同じ地平に
立っているその姿はAI画像と小説の言葉がいつもフェアに
そこにいる。

そんな気がしてならない。

幻想的なこちらの作品でも、映像のインパクトに
対峙している文章が印象的だ。

私の背中には黒い羽が隠されている。

勿論、私は人間だから羽など生えてはいない。両翼を広げて空を舞うことなどできようもなく、そんな夢は夜眠る時にすら見たことはない。
けれど、夢を見ていた。
確かに、あのとき、私はー

春永睦月氏『夢を見ていた。』
冒頭の言葉より。

こんなイメージの翼が限りなく広がりそうな
冒頭のシーンからはじまる物語。

見たこともない星の上に立っていた。踏みしめる足下には既に土はなく、赤錆びた砂が星を満たしていた。遙か彼方に青い星が浮かぶ。今は届かぬ場所。

春永睦月氏
『夢を見ていた。』より。


この文章にこの画像。
きっと的確にそのイメージをAIに伝えていることが
みてとれるよう。

わたしはあまりというかほとんどAIに明るくないけれど。
その画像になるまでたぶん、春永さんはイメージに添い
すぎないテキストを工夫されている気がする。

ちがっていたらごめんなさい。

わたしは作品を拝読するたびに、こちらの画像たちに
言葉の世界が連れて行ってくれる世界と画像が示してくれる
世界がまざりあうことで、新しい時間を旅しているような
気持になる。


忘れ去られた果てに、規則正しく並ぶ無機質なオブジェがある。何を讃えるのか、何かの証なのか。知る者はそこにはいない。

春永睦月氏
『月を見ていた。』より。

noteを書く前はわたしはあの真っ白い余白に
これから何を埋められるのだろうかと不安になる。

そして文字をぽつぽつと打ってみては、今日はだめ
だって弱気になってしまうこともしばしば。

そのせいか、文字だけではないもので構成された作品
へのあこがれもある。

noteのその大海原の白の中に計算された凛とした言葉と
AI画像がまじりあう。

この世界を読者として味わうことができるのは
とても贅沢な時間のように思える。

そしてこちらの作品は音楽から生まれた物語。

視覚だけでなく聴覚も総動員して作られた世界に
ぜひ触れて頂きたいと思っています。














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