あやまちに馴染みたい、夜だった。
罪とは言わないまでも、その場所に居る人に
とってはちょっとした心地よくないことを
してしまうことってある。
どうしてそんなふるまいをしてしまったん
だろうって、忸怩たる思いに駆られる
こともある。
じくじたるってほんとうに凹んできそうに、
重たい漢字だな。
ほんとうは全然違うことを書こうと思って
いたけど。
この間、大好きな作家の方がもうこの世には
いらっしゃらないお知らせをTwitterで
知って。
あの話に出会いたいと㏚誌「花椿」をめくっていた。
<過ち>について書いてある、みじかい小説に再会する。
大崎善生さんの「彼女が悲しみを置く棚」。
むかし、好んで彼の作品をよく読んでいたので、なじんだ時間が、すぐそこに触れられる距離にあるようで安堵する。
そう、今日はなんかわけもなく安堵したかったのだ。
ずっと誰かに甘えていたいような安堵を求めていた。
罪を責める側の言葉ではなくて罪を犯した
人間のそばになぜかいたくなった。
実際に側にいることはできないから、
小説の中の彼らの近くにいたかった。
なじんだ作家の作品と過ごしたい気分って。
こういうことなんだなって思った。
つまり信頼してるってことだと思いながら、
読み進める。
そんな途中の色たちが、溶けてゆこうとしている絵が小説の扉に描かれていた。
こう書かれているように。
雑踏を行く人たちの過ちが、そこにはあふれかえっていて、
もしそれが<桜の花びらのように>目視できたとしたら
<空を覆い>つくしてしまうだろう。
そして、<わずかばかりの後悔とともに>路地に散り消えてゆく、
そんな最初の文章に惹かれていた。
それはたぶん過ちを犯した人間に対しての
やさしい眼差しに馴染みたくなっていた
からだろう。
何年も前にも読んで好きだったはずなのに数年前はたぶんこの箇所にはあまり気持ちが動かなかったかもしれない。
あやまち。
その掌編をくるんでいた淡いたみずみずしい色だけを、憶えていたような、そんな感覚に陥った。
一字一句が、あたまのなかにしまわれているわけじゃないから、物語のいくつかはじぶんの中の風景のように、
記憶されている。
漫画だって歌詞だって小説だって、
風景としてそこにある。
漫画でみた風景、たとえば空き地に捨ててある、「ポンコツ」の黄色い車の側で咲いているコスモスと赤い傘の男の子とか。
じぶんがそのコマの中にとけこんでいて違和感なく、記憶してしまっていることがあって。
それがじぶんの記憶だったのかどうか、
あやふやになって。
ふいにちがうやん。
ああ、あれはフィクションの出来事だったと後で気づく。
いつだったか、いつかの暮れ辺り、港千尋さんの『風景論』に
ついての書評の文章を目にした。
再び、大崎善生さんの小説のなかの丁寧に紡がれた言葉を目で追う。
いくつもの風景のなかで、ひとは出会ってつみをおかして、別れて、そのつみをこころの隅にひきずりながら、生きていくひとが描かれていて。
その風景のなかに、いつか罪をおかしたひとのひとりとして、読者も雑踏のなかにまぎれてゆく。
読者、つまりわたしだ。
わたしも幾つかのつみをまといながら、しれっと雑踏に紛れ込んでいる。
そして誰か知らない人とすれ違う。
あの人もなにかのつみを身体のどこかにひっそりと隠している人なのかもしれないと夢想しつつ。
つみと罪。
いまなにか、ただ暑さの中でなにかが欠けてゆくように、溶けてゆくように
街の風景が変わってゆくのを見ていると。
風景って、そこにある自然のただなかに人々がやっかいにからみあっているから、その場所にさまざまな匂いや色をにじませてゆくものなのかもしれないな。
そんなことを思っていた。
たとえば突然の雨が、なんかこの街をあやふやなバランスでもって、にじませて
いるような。
だれが街のそのバランスを、担っているのかしらんけど。
大崎善生さんは、大切な物語を遺してくださったんだなと思った。
わたしはこの小説のおかげで、心をそっと
掬ってもらった。
小説は時々わたしのそばにいてくれて。
そんなわがままに甘えながらそれでも、
読者の生きて行こうという気持ちと
伴走してくれる。
そんなことを噛みしめている夜だった。
大崎さんの新しい作品が読めないこと
だけがとてつもなく
さみしい。
でたらめにあるいてきたとうそぶくだれか
吹き抜ける 雨のにおいに あやまちとけて