人生のおしまいのこと、気になっていたこと。
時折、おわりのことを考える。
たとえば、いつまで書いているのかなとか。
ちゃんと最後まで走れるのかな? とか。
おしまいがどれになるのかわからないから
それは知らないまま繋いでゆくしかない
のだけれど。
センチな気持ちじゃなくて、どっちかというと興味本位かもしれない。
じぶんにさして興味があるほうじゃないけど。
おしまいのことはそれなりに気になる。
そんな思いで居た時、はじめはなんのき
なしにみはじめたドラマにはまっていた。
予定外にはまるってことある。
好きになる予定なんてなかったのに、
気づいたら沼してたみたいに。
伊藤家の三姉妹とお父さんとお母さんが
繰り広げる
ホームドラマ(今、昭和みたいにホームドラマっていうのかな?)にぞっこんしていた。
お父さんが吉田剛太郎で。
お母さんがMEGUMI。
こんな夫婦いるんかって思ったら
めちゃくちゃMEGUMIさんが
昭和のお母さんで嬉しくなった。
ちょっと理想かもしれない。
次女がもう離婚しようと実家の
門をくぐった時、出迎えたMEGUMI母さんは
お腹空いてんじゃない?
ってお帰りの代わりにそんな言葉を贈る。
三姉妹たちがみんな美しいのに泥臭くも
ありいい。
長女が、木南晴夏で。
次女が佐久間由衣で。
三女が武田玲奈。
まあこんな三姉妹漫画だよねって
思いつつも。
彼女達の日々はかなりリアルで。
カッコ悪いところもばんばん
さらけだして。
あそれ、わたし!
っていつのまにかハマっていた。
わたしは姉妹で育ったことないので。
その感覚は身に着けていないけど。
女同士の姉妹ってなんか喧嘩もあるけど。
ときに友達のようでええなって思った。
ご飯のシーンもふんだんで。
朝ご飯の目玉焼きのおいしそうなこと。
彼ら伊藤家の家族には、リモート会議っていうのがある。
ちょっとウザそうなんだけどこれが思いのほかよくって。
「毎日しっかりと食べているか?」とリモートで娘たちに訴える父。
腹ごしらえは大切だぞと。
当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
「食べることというのは生きること。そして、生きることは戦いだ」
「毎日、当たり前に食べよう」と説く。
この「当たり前に食べよう」のところでぐっときた。
切ない時苦しい時、どうにもならない時。
なんにも食べたくなるわたしは、当たり前に食べていいのだと泣きそうだった。
伊藤家のリモート会議参加したくなった
ぐらい。
ある日の食卓。
お味噌汁に大量の白髪ねぎが入っていた。
分け入っても分け入っても青い山(by山頭火)みたく、
すくってもすくっても白いネギのお吸い物茶椀の世界がそれだった。
吉田お父さんは、箸でそれを何度も掬いながら今日のお味噌汁はネギが多いねみたいにその理由をお母さんに聞く。
ネギがね冷蔵庫の奥で誰にも使われずに
7cmほど残っていたんですよって言う。
それを聞いた吉田お父さんは、
妻の千鶴をほめたたえる。
それを使い切ったのか!
って大げさなんだけどこの家族なんでも
大げさなのでみているうちにそれが
大げさであることはなんとも思わなく
なってくる。
慣れの法則だ。
使い切ったんだなって。
めでたいことだとほめたたえる。
妻の千鶴子さんはきょとんとしているの
だけど。
その日の夜の家族リモート会議で吉田おとうさんがのたもうた言葉。
それはわたしがさっき冒頭で呟いていた
おしまいの思いへの答えのようなものが
あった。
ちょっとびびった。
この言葉を聞きながら、わたしはちょっと
ぐすんとしていた。
たとえ話がネギなのに。泣いた。
冷蔵庫のネギなんてうちにもある。
なんだったら、ほうれん草の二束とか。
学食で食べていた時のカツどんに申し訳
程度に浮かんでる玉ねぎとかいっぱいある。
そんなたとえ話で喉の奥がしょっぱくなるとは予定外だった。
そう。
やり残してこそ人生だって思いたかったんだと思う。
じぶん以外の誰かにそう言ってもらって、
それが実の父とかじゃなくていい。
ドラマのほんとうは居ないお父さんに言って
もらったからこそ、うなづけたのだと思った。
ドラマの台詞はわたしの乾いた心。
雨模様の心にとても効いていた。
おわりとか気にすんな。
明日終ると思っては生きてないけど。
前向きに、時には後ろ向きにも倒れながら
たどたどしく歩いて行きたいと思っていた。