真夏の図書館お散歩、行ってきました。
そのお店のことは、誰にも言っちゃいけないよって言われてるみたいに佇んでいるお店っていうものが街のどこかにあると、もうわたしはその街を好きになっている。
そして記憶の中にずっと住まわせて。いつか行ってみるんだ、いつかあの扉を開けてみるんだって思いながら日々を過ごす。
世知辛いこともあまたあるような日々の中で、そういう、場所が記憶のひきだしにはいっていると思うだけでちょっと日常が楽しくなるし。
「いつか」という希望がほんとうに「いつか」叶うような気がしてうれしくなる。
そして時々不安になる。あのお店ほんとうは、見える人たちだけに見えていて、みんなには見えなくて。
実際訪れてみたら、そこには存在してなかったとかないよね? まだあるよね? って謎の不安が生まれてきたりする。
でも昨日わたしたちはそこを訪れた。
店に訪れるというよりもう密かにそれは潜入に近くて。
そのお店の階段を上がってるだけで浮足たってきて。
微妙に高さの違う階段でふわっと揺れそうになった。
もう時空を超えてちょっと隣町の「昭和」に来た感がうれしくてたまらない。
扉を開けて微妙に曇っている窓側の席についただけで、満足していた。
時空がゆがむとは比喩だけど。
ここに居る間はしあわせになんか「昭和」のいいところ、懐かしいところ、誰も傷つけることのないやさしいところ、
でもキッチュなところがぎゅっと詰まった空間だった。
いわゆるレトロとも違ってやっぱり時空がゆがんだみたいな、それは幸せな体感だった。
テーブルの上のライトも昭和の一般家庭にあったような、ひもついてるぱっちんって消すやつみたいな照明器具で。
紐の部分は触ったらアカンでみたいにくるんと照明カバーの半円形の上の方にたるませてある。
子供やったら、終点駅でバスの降りますランプを連打するみたいにこの照明器具のひもをぱっちんしたくなる誘惑にかられるんちゃうかなとか話しつつ、笑った。
いっぱい笑った。化粧とかアイラインとか溶けてしまうやろういうぐらいに涙流して笑ってた。
大人になってあんなに笑ったことあったやろか。ない。あんましない。
それはあの人やからもたらしてくれた笑いなんやなって。
悲しいも怒りもどっちかっていうと簡単だと思ってる。
でも日常の爆笑みたいなのってなかなか訪れない。
でも今日ふたりでわらえたことがなんか嬉しかった。
純喫茶物語のエピソードは、いっぱいあったけど。
次の目的地「図書館お散歩」も今日のメインだった。
これまた楽しかった。この場所は二度目。
前回は雨が降っていた。雨の図書館も風情があっていい。
でも今日みたいな天晴なお天気の日も思いがけない避暑地のようでよかった。
図書館お散歩って、つまり背表紙みながら気にいったものがあったらどちらからともなく、手に取って。
ページをめくりつつ、視線とまりつつ。この文章、え?
なんなん凄いなとかつらつらと話すだけなんだけど。
今日は竹久夢二にまずつかまった。
竹久夢二の絵と言葉の全集は詩だったので
ページの余白が息が抜けるようでよかった。
そしておなじみの絵を見ていた。
こんな雰囲気の絵を描かれる方です。
切り取られた世界はそこにあるのに。
それは平面ではなくて、この描かれなかった
後ろ側の時間が膨大だなって感じていた。
昔CMで見たことがあった竹久夢二だったけど。
今再会するように見ていて。一緒にお散歩したGさんが身体とか顔のバランスからいうとほんとうにデザイン学んだ人の技術を逸脱しているみたいなことを言ってくれたのを、きっかけにわたしのなかでこの絵に対する思いが言葉になってふとでてきた。
バックボーンとかこの女の人のずっと後ろ側の時間が折り重なってるって言ったような気がする。
そしてその日の図書館お散歩としては最終的にとてもキーポイントになったのが、中原中也だった。
日記をみつけた。時に詳らかに思いを綴っていた。
それはまるでTwitterのポストのようで。
冒頭ディスってんのだなって思ったら最終行でほめまくっていたり。おもしろい。なまなましい。
ページをめくりつつ読み進めて、気づいたらわたしたちはしゃがんで夢中になっていた。
子供か。
子供が絵本を読んでる時となんら変わらない。
中也は怒りにまかせて書いているようで、いや書いているんだけど。その怒りは決して、ちいさな「私」の悩みではないかもしれないとかをふたり感じていた。
その考えに至ったのは加藤周一の著作から
学んだことをGさんが話してくれたことによる。
「私小説」というすりばちの穴に落ちてゆくその危惧。
その小ささに集約されてしまうことになやんだのではないかとか。
「罪悪感」という言葉が何度か中也の日記にでてくるけど。
この罪悪感って、めっちゃ罪悪感感じるわとかいうそういうちっちゃいな、あんた、それ言い訳やんみたいなんじゃなくて。
わたくし個人から遠く離れた場所をみた、もしくは日本を愁いた「罪悪感」やったかもしれへんなみたいに話しが、ひろがっていき、なんか面白かった。
中原中也のこと、誤解してたよねみたいな気持ちになったし。
その「罪悪感」とかの思いは中也だけじゃなくて、あの頃生きていた創作者たちにはかなり共通してたんやないかとか思ったりを、つらつら話した。
ね。
今回二回目だったけど。
図書館お散歩ってかなり刺激的で楽しい。
これはなんていうか、わたし以外の意識も考えも自分の中に注ぎ込まれるという刺激、体感なのだと思う。
ひとりじゃ足りない時がある。
ひとりでも考えられるんだけど。
なにか知識ふくめて足りない時がある。
そういう時に、共に過ごす人のアイデアや
知識を柔らかく借りることでまたわたしの
なかの考えとか想いが動き始める。
独り言じゃないふたりごと。
そういう図書館の楽しみ方を知ったのも。
思いがけずコメント欄から冗談みたいに
生まれたけど。
noteに来たからこそ味わえたこと、出会えた
ことはほんとうにうれしい。
不定期次回へつづく。