書くことって、ガチで読むことから始まることを教えてくれた。(#たまごまる杯に寄せて)
いつも、リアルで何かを感じることが下手だった。
今日起きたことはたぶん明日の今頃になって実感を
伴っているような気がずっとしていた。
何度か自分の中で反芻してみて、あぁ昨日のあれは
ああいうことだったんだと実感を伴ったりして。
ほんとうに面倒なやつだったと思う。
昔、ありがとうをイギリス人の方に言われたことが
ある。
幼かった頃から大人になるまで暮らしていた大阪の庭
での出来事だった。
日が暮れるまで、座り込んで雑草を整理していたわたしは、
ふと通りを歩く誰かの視線を感じて顔を上げた。
彼はよくみかける近所に住んでいるイギリス人の
サラリーマンの男の人、確かダニエルさんだった。
彼は歩いていたその速度をゆるめると、しゃがんで
芝生の間の草をとっているわたしに視線を注ぎ
声を出さずに口元だけで
<thank you>と唇が動いたのがわかった。
なにが<thank you>だったのかわたしはわからなかった
けど。
あわてて立ち上がり、軽く会釈することぐらいしかでき
なかった。
しばらくしてあの<thank you>って? って思って
腑に落ちた。
知らなかったけれど。
ずっとみていてくれていたんだ、たぶん出勤する時や
会社から帰るときにうちの小さな庭を。
庭って、道行くひとのためでもあるんだと、気づいて
知らない人が、知らない時間にこの庭を見ていてくれた
ことがうれしくなったことを思い出す。
花を咲かせていたのは、祖母や母だったけど彼女達の
代わりに、わたしがお礼を受け取ったような気がしたのだ。
そういうことなんだなって。
あのときの<thank you>はだいすきな叔父のハルヲさんに
頭をなでてもらった子供だった時のようにちょっと
うれしい出来事だった。
そして今。
noteをはじめてからありがとうを言いたい人が
毎日のようにいることに幸せを感じてる。
この間、わたしはたまごまる杯で金賞を思いがけず
頂いて記事にさせて頂いた。
すると信じられないぐらいの祝福の言葉が届き。
生まれて初めておめでとうとありがとうの言葉を
胸に抱えきれないぐらい頂いた。
たまごまる杯は、競うだけじゃなくて、そこに集う人と
あたたかくつながることができるという、心をつなぐ
コンテストであることを、胸の奥で知った。
そして後日。
違う記事を書いた時。
いつも仲良くさせて頂いているある方がコメント欄に言葉を
贈ってくれた。
ぼくたちが、noteの記事を読んで涙してしまうのは、
本気で読んでるからなんだろうな。
って書いてあって、
書く方の本気と、読む方の本気がリンクするから。
って、その後照れたようないつもの言葉でしめくくられて
いた。
わたしは、彼のこの言葉にはっと気づかされて、
一瞬茫然とした。そういうことだよって。
そして、思い至ったのがこの間のたまごまる杯だった。
たまごまるさんが、ガチで書いたわたしたちの文章を
ガチで読んでくれたから、たまごまるさんは涙するのだ、
と。
noteって記事をあげることつまり書くことばかりに集中
しがちだけれど。
読む人の熱量ってとてつもない力が潜んでいると思う。
書いている時も読んでくれるという視線を日々感じる
ことができるから書けるわけで。
わたしたちに本気で読むことを教えてくれたのが
たまごまる杯だったのだと今頃気づかされた。
感想の言葉には本気で読んでいたその熱量から
うまれた光のような言葉たちが集っていた。
読んでくれるひとがいるって、なにものに代えがたい
希望であり明日生きてゆけそうな支えであり、
未来への信頼なんだと。
この間、浮かれすぎて大切なそのことを言い忘れていた
ような気がして。
今日のエッセイをたまごまるさんに捧げます。
ダニエルさんのように言います、<thank you>って。
ひとひらの ゆめに似ている ことばがこぼれる
夕暮れの thank youだけが 耳に届いて
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊