雨の中、走り抜けたい想いの中で、ひたすら走った。
「くたびれたソファがさ、気づいたら破れてたからガムテを貼っていたよ」
って知らない人の声が近くから聞こえてきて。
おもしろい応急処置だなって思ってたら、
「うちはなんでも、ガムテで処理するから」
なんでもって?
って彼女と彼たちのすごくその先が聞きたいと思ってたら、突然、お店の
屋根を突き破りそうなぐらいの轟音が、聞こえてきた。
いつも日常のこまごまとしたものを買う店だったから。
馴染んだ店だし地元だし。不安はなかったけれど。
音の正体は雨だった。
さっきまで、11月じゃないみたいに晴れていたから、とても油断して
いた。
油断していることすらも気づかずに、カートと共にたらたらと歩いていた。
雨宿りを店先でする。
円柱の箱の中に入ったビニル傘を入り口で、そのお店の人が売り始める。
その店のすぐ先で待ち合わせをしていたので、買い物が終わったすぐ後で、走るか否かの判断を強いられた。
その人は、たぶん雨の音を聞きながら、待っていてくれているのかも
しれない。
1人の女の人が、その雨宿りの列からぬきんでて、斜めに走り出した。
すこしだけ鞄を頭の上に乗っけて。
行くときは行くっていう風情で、颯爽としてかっこよかった。
雨が店のひさしを、突き抜ける音は、ほんとうに激しいエネルギー
そのもので。
雨ってやっぱりぬれてつめたいとかの前に、<音>なんだなって思った。
いつだったか数年前の5月頃。
カンヌ映画祭の受賞スピーチを聞いていて書き留めてしまったことが
ある。
『ドッグ・マン』という映画で。
男優賞を受賞したマルチェロ・フォンテさんの言葉が印象的だった。
「幼い頃、雨の日に家で目をつむると雨音が拍手の音のように聞こえた
ものだった。今は皆さんの拍手に包まれ、まるで家族のような温かさを
感じます。家にいるような居心地のよさです。映画も私の家族です」
この後、カンヌの皆さんとカンヌの砂の一粒までもが大切に思えます。
感謝しますとつづいてゆく。こちらまで、優しくなれそうな気持にさせて
くれるすてきなスピーチだった。
失われたはずの抒情としての雨と家族が、そこにあることが、胸にひたひたと響いてきた。
雨が降ると時折、
マルチェロさんの言葉をひっそりと思い出したりしている。
そして、ぜんぜん抒情でもなんでもない季節外れの夕立みたいな大粒の雨の中を、わたしは走り抜けていった。
待ってくれていた人は、
走ったの?
この雨の中を?
傘持たずに?
って
いつもの表情で、立ち上がって待ってくれているのがガラス越しにみえた。
今日の
は
ヨルシカさんの 雨とカプチーノです♬
♬どうぞお聞きくださいませ♬
なにもかも 季節外れの この世のここは
はずれてる ことばみたいに 雨がうがつよ