「さみしさ」を分有することと「恥じ」を感じること
文芸批評時評・9月 中沢忠之
文学界隈では、先ごろ刊行された小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』が話題である。『群像』に短期連載されたもので、「ケア」の観点から文学作品を読み直すという方法に依拠した評論だ。この評論を紹介し、同じように「ケア」の観点から複数の小説を評した文芸時評から一つの論争が起こった。論争のプレイヤーは鴻巣友季子と桜庭一樹である。
事の発端は、桜庭の自伝的小説「少女を埋める」(『文學界』9月号)を評した鴻巣友季子の文芸時評(『朝日新聞』8月25日「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」https://www.asahi.com/articles/DA3S15020752.html)の記述に対する桜庭の批判にある。桜庭は、自作の鴻巣評に対して、誤解を生む表現――桜庭によれば「内容とは全く逆」――があると批判をした。具体的にいえば、鴻巣は《母の父に対する介護時の虐待》を作品内の事実として記述したが、そのような出来事は作品内に描写されていないのだから誤解を生む、という批判である。とくに文芸時評が掲載された媒体が『朝日新聞』だったことも、桜庭にとって無視できない要因だったようである。「朝日新聞は数百万部発行の巨大メディアであり、影響力は甚大です。時評で「自伝的随想のような、不思議な中編」と紹介されたこともあり、私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中傷が及ぶことをも心配し、訂正記事の掲載を求めました」(https://digital.asahi.com/articles/DA3S15035360.html)。これは『朝日新聞』のデジタル版に掲載された桜庭の反証である。
桜庭がTwitter上で批判をしたのが、時評が出た8月25日(https://twitter.com/sakurabakazuki/status/1430318251536310272)で、訂正記事なり反証なりの機会を要求、鴻巣もTwitterを中心に批判への応答をし、『朝日新聞』がデジタル版の問題個所に訂正をくわえ、鴻巣と桜庭の両論掲載していちおうの終結を見せたのが9月7日である。桜庭は一連のツイートの中で朝日新聞社関係の仕事を降りてもよいといった、奢りゆえの脅迫なのか自信のなさゆえの自殺行為なのかわからない強硬策を打ち出したが、桜庭も鴻巣も双方粘り強く言いたいことは言い、折れるところは折れ、押せるところは押した結果に落ち着いたのではないか。一オーディエンスとして、皮肉抜きに見ごたえのある論争だったと思っているし、裏で何があったかは知らないが、『朝日新聞』も媒体としてけっこう頑張ったように思う。
論争の渦中で気になったことがあるとすれば、むしろオーディエンスの反応である。鴻巣の記述を「誤読」だとし、小説に対して加害性があるとすら断言する鴻巣批判をしばしば見かけた。鴻巣評の加害性に関しては、桜庭の上記反証にも見られるところである。
私が読んだ限りでは、鴻巣の《母の父に対する介護時の虐待》をめぐる記述は「誤読」とまでは言えない。確かに、母と父の不仲が故意に言い落とされている叙述の重要性を加味すれば、「虐待があった」と短絡する記述は、時評のテーマである「ケア」に引き寄せ過ぎた強引な解釈だという批判もありえなくはないが、いずれにせよこれが「誤読」なら、たとえば私が批評を始める不幸なきっかけとなった蓮實重彦の『小説から遠く離れて』はトンデモ本でしかない。というより、これまで世に出た多くの批評が小説を加害していたこと――作者の意図せざる何かを炙り出す解釈こそ優れていると見なされたことすらある――が過去にさかのぼって明らかにされ、勢いを増すキャンセル・カルチャーの波に巻き込まれると言いたくもなる。
他方、桜庭の反証にある自作解説「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」の方が「誤読」だと私には感じるが、そうでなければ、鴻巣の「誤読」を訂正する、地元の読者に対するダイレクト・メッセージと考えるべきだろう。
しかし、それにしても、私たちはフィクションをどこに置いてきたのだろうか? 何を譲り、何を守るべきなのか?
おそらくこの論争を受けての発言だと思うが(作家にその意図はなくともそのように受け取られることがあった)、Twitter上で山崎ナオコーラもまた文学の加害性を深刻に受け止めている(8月28日)。「テクストだけが文学だった時代は終わったのだと思う。「どう読むか」だけの議論では文学は残らない。社会でどう作用するかまでが文学。しかも今は双方向で社会を作っていく時代。誰を傷つけるか、誰を助けたいかまでも文学。作家も人間として生きている。文学はテクストの中だけにあるものではない。」(https://twitter.com/naocolayamazaki/status/1431296674526154753)
「どう読むか」より「社会でどう作用するか」に配慮すること。かりにこの発言を当該論争に落とし込んでみるなら、「どう読むか」にこだわって作家を傷付けた鴻巣サイドに対する批判になるだろう。皮肉なことは、山崎の発言が「ケア」的な文体であるところからも察せられる通り、鴻巣が依拠した「ケア」のテーマこそ、文学に「社会でどう作用するか」の観点を持ち込む方法――直近の前任者としてカルチュラル・スタディーズがあるが――だったことであるが、さらに小説家にとっても皮肉なことは、「どう作用するか」を重んじるほど、文学不要論へと容易に行き着くことである。じっさい、戦時中などは最も政治的抑圧が及ぶ表現形式であったことは知っておいてよい。私たちが相互検閲するまでもなく、少しでも情勢が変われば、表現の社会的効用――「どう作用するか」――の題目のもとに文学は「どう読む(書く)か」を許されなくなる。
文学は、社会と直接繋がっている表現形式(伝達のために意味と表現が一対一対応していることが理想)ではない。文学はフィクションであり、フィクションであるという契約において成立している以上、「どう読むか」の多義性を本来的に持ち、「どう作用するか」が予測の付かない表現形式である。だとすれば、社会的効用――「どう作用するか」――を評価軸に置けば、たちまち不要視されるのは当然である。むろん文学など社会から見捨てられても構いはしないのだが、問いはこうあってもよいのではないか。文学の加害性とどう向き合うか? フィクションを見殺しにしない仕方で。
当該論争をより深く知りたいなら、批評サイドからの見解だが、荒木優太+藤田直哉+仲俣暁生の討議「批評のゆくえ2021」(9月4日)をチェックしてほしい(https://twitcasting.tv/loft9shibuya/shopcart/99007)。文芸批評家ってこんなにちゃんとしてたっけ? と感じるほど(皮肉ではない)双方に対して可能な限り公平な立場から、論争に誠実に向き合った言葉を聴き取ることができるだろう。鴻巣と同じく時評――『文學界』の「新人小説月評」――の作品評価で荒木は批判を受けたことがあるが、彼はオーディエンスからの批判のみならず、元々は掲載媒体からすら批判されていたのだった。討議では、いまやクレーマーでしかない批評家のサバイブの仕方についても議論されていて勉強になった。
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