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終わってしまったものは哀しく、美しい。『ゆきてかへらぬ』
Tジョイ京都にて『ゆきてかへらぬ』を鑑賞。劇場には広瀬すずの作中着ていた衣装が展示されていた。
長谷川泰子、中原中也、小林秀雄、この3名の青春映画である。
で、私は、中原中也と小林秀雄、嫌いなんだよネ。特に小林秀雄ね、小林秀雄を有難がってる人間は嫌いだなー。中原中也もニートだし、ニートパワハラ野郎と意味不明パワハラ野郎二人の映画って感じ。
でも、この映画を観たのは、根岸吉太郎監督だからかな。
根岸吉太郎の『遠雷』はウルトラに傑作だったなー、で、今作、結論からいうと、なかなかいい映画で、ちょっぴり小林秀雄と中原中也が好きになりました。まぁ、基本的には嫌いだ。
で、今作は、まぁ、三角関係、の映画、だが、舞台は1925年、私の、大好物の、時代、である。やっぱり、1920年代ですよ、まぁ、最後の文明文化爛熟期です。
この長谷川泰子、という女優、彼女が主役で、軸となり、二人の男、中也と秀雄の間を行き来する。まぁ、前半は京都が舞台、中也パートだ。中也は、初登場から、あのマント、帽子で登場する。然し、中也役の木戸大聖、初めは若干外れかな、と思ったけど、だんだん味が出てくる、つーか、ぶっちゃけ、主要3名の中で一番良かったね。広瀬すずが2時間8分、出ずっぱり、なわけだが、まぁ、広瀬すず、やはり、演技が巧い、と、いうよりも、最早、何をやっても広瀬すず、であり、最近見た『阿修羅のごとく』のおんなじ人やん(まぁ、おんなじなんだけど)、と思い、と、いうか、『プレモル子ちゃん』のCMともおんなじやん、って感じで、ものすごい存在感、であると同時に、最早、広瀬すずという概念、になりつつあって、基本的に、攻撃的で険のある感じ、毎回毎回、こう、文芸映画に出るたびに、演技開眼、とか、女優開眼、みたいに言われているけれども、広瀬開眼、であり、もう、卍解状態で、何をしても、広瀬すず、というキャラクターとして、存在している。
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で、開眼、と、いえば、川端康成の小説に、『女性開眼』という作品があって、これは、盲目の女性が主役で、中盤に手術で眼が見えるようになる。そして世俗の嫌なものを見て……、という話だが、なかなかいい小説で、然し、YASUNARI小説の中では知名度は低いだろう。以前noteにも書いたのだが、『女性開眼』は多分、YASUNARIファンには必修としても、そうでない方はほぼ読んだことのない作品だと思われるが、これはおすすめだ。下記記事では、『東京の人』も挙げているが、これも傑作で、然し、代作である。
で、映画、前半は中原中也パート、中盤が小林秀雄パート、最後に別れとのとき、パート、みたいな感じで、二人の男のクズっぷりが描かれている。
中也は言う。「俺は全生活をかけて詩を書いてるんだ!」と。然し、ニートである。そんなもん、働いてないなら当然だ、何言ってんだこのバカ。と、思いつつも、中也のバカぶりは可愛い。可愛いのだが、小林秀雄は、そんな中也の天才を信じているぜ、みたいに煽てていたが、ふたりとも馬鹿である。
そして、秀雄は中也と付き合っている泰子に手を出して、恋仲になる。中也は責める。泰子は操られている、「こいつは人の心を操作するのに長けてるんだ!」と。全くその通りであり、小林秀雄は、なんとなく小難しいことを言い、馬鹿にされたくない人は、そもそも小林秀雄が何を言っているのか理解しないまま評価する。
そんな小林秀雄も、後半、泰子がだんだんと精神的に不調をきたして狂っていくと、手に負えなくなって憔悴していく。小林秀雄のべらんめぇ的な感じを、岡田将生が嬉々として演じている、が、顔が美しい、ので、もう少し危険な匂いを放つ役者の方がよかったかもしれない。胡散臭さもあんまりないし。
後半、柄本佑が出てくる、出てくるが、然し、この映画、恐ろしいほどに、3名以外出番が5分とない。この3人で回している。舞台のようだ。詩、舞台、それらは同列のようである。
批評的なことを述べる小林秀雄を筆頭に、女優の泰子、詩人の中也、彼らの台詞は全てお芝居めいていて、この映画そのものが作中でも中也と泰子の会話で出てくるように、子供時代の終わり、子供めいた言葉で紡がれた黄金時代を演じているお芝居の終わり、に、思える。
前半部に、中也が、子供時代を美しい時代、と、いうシーンがあるが、美しい時代、と、いうものは、終わって初めて理解できるものだ。そこにいる時には、気付くことはできない。これは黄金時代なんだ、とは感じることは稀だ。この映画は、美しい時代そのものを描いているとも言える。それを詩人の中也が代弁しているわけだ。
然し、この映画、2時間8分ある。長い、128分、である。
私は思った。ものすごく端正な映画だなぁ、と。昔は、もう少し荒削りでも、余白、即ち、ぶつ切りだったりしても、観客の想像を広げる余地があったような気がするが、今は、1シーン1シーンが長い、丁寧、親切、ここまで言うか、であり、全てが作品で語られている、と、いうことが多い。
長い、と、いえば、この映画ともう1本、迷って結句、こちらのしちゃったけれども、『ブルータリスト』、前半100分、インターミッション15分、後半100分、と、いうふざけた上映時間、215分、なんて、これはもう、『ロード・オブ・ザ・リング』のエクステンデッド・エディションであり、休憩はいらないから、もう少し早く帰してほしい、という印象、である。
で、最後に、エンドクレジットに歌が流れる。
いや、いい曲なんだが、映画の空気と合ってない気がする。然し、この曲で、なんか、いい青春映画を観たなぁ、という気にさせられたので、何故か泣きそうになったので、やはり、音楽は5分で感情をピークに持っていくなぁ、と再認識。
然し、名曲だなぁ。少し2000年代感もあって良いねぇ。