翻訳者から見た和歌の世界チョン・スユン『言の葉の森』
チョン・スユン『言の葉の森』、亜紀書房、2021年。 2つの点で贅沢である。まず日本語話者でない書き手のエッセイであること、その書き手が翻訳者という言葉のプロであるということ。こんなミラクルな書き手の本が読めるとわ。
チョン・スユン氏は太宰治や宮沢賢治、茨木のり子などを手がけた翻訳家。どうやって翻訳家になったのか、翻訳の醍醐味や日本に滞在してたときの体験記などを淡々と、しかし確かな熱量をたたえて書いたエッセイ。情熱的で読んでて奮い立たせるというリズムではなく、じっくりと時間をかけて味わい、読み終わる頃にはさて、いっちょ自分も頑張るかと背筋を伸ばしたくなる感じ。
テーマにしているのは和歌だけど、大半が百人一首や学校の古典教育で習ったものばかりでとっつきやすい。その選択に読みながら「あ〜分かるよ、それやっぱツボだよね」とか、「これからそういく?」と勝手に著者と会話するように感想をつらつら述べたくなる。これは一人で読むよりも、知り合いと一緒に読んでああでもないこうでもないと語り合うのが楽しい本である。
翻訳された文章とは、原書の作者の文章と翻訳者二人の作品であるというのを昔どこかで読んだことがある。従って翻訳者に必要なのは約する外国語の能力よりも、母語を操る力である。とロンブ・カトー氏や、トム・クルーズの通訳を最近引退した戸田奈津子氏も語っていた。なるほどだからか翻訳者が書いたエッセイは翻訳された作品に負けず劣らず強烈に面白いことがある、岸本佐知子氏、鴻巣友季子氏、若島正氏など枚挙にいとまがない。
そしてご多分に漏れずこのチョン・スユン氏の文章も面白くて読み終わるのがもったいなくなる味わいがある。日本語を母語としない視点から和歌を読み解いたり、日本語の構造を指摘していく様が読んでて、ウキウキするとは違うがちょっとときめく。
「本屋さん」「花屋さん」を当たり前とする日本語は万物に魂が宿るとする言語だと指摘する下りなど目を見開いてしまった。本屋や花屋などを商う人を呼んでいると認識していたが、なるほど業種そのものを擬人化していると解釈するという発想もあるな!と。
また太宰治の作品を翻訳してる中で、津軽の人が自分が可愛いと思えばなんでも「こ」をつけて(例:机→机こ)と呼ぶと知り、それではと愛用してるPCをパソコンこ、とするセンスが微笑ましくて、思わず分かる〜〜と手を取ってキャッキャしたくなる。パソコンこだとちょっと長いから省略してパソこにしようと頭の中で茶々を入れてしまうほどだ。ようは読むと親近感わきまくり。(その下りに引っ張られてた和歌は、藤原忠平)
どうやって翻訳になるのか、翻訳家になったあとの生活も淡々とした筆運びで書いてあるが、その淡々としたスタイルが地に足ついたこの筆者の人とのなりを伝えてくれる。特に印象に残ったのが下記に引用したあとがきに当たる部分のこの一文。
日本と韓国、近くて遠い国なんて形容する関係ではあるが、そこにいるのは所属が違うだけで基本的なフォーマットが変わらない人間というものである、という視点が別の言語の話者から指摘されてはっとする。
翻訳された文章を読むこの醍醐味として、似ているものと異なるものを触れられるというのがある。その醍醐味に和歌の世界が加わったやっぱり贅沢な本だと思う。
こちらは著者が本書で取り上げた和歌についての記事、このリンクを張ってから全く上記で和歌について触れてないことに気がついた。何をやっているのだと熱に浮かされて書いて冷静になってうんざりする。
下記は翻訳者、吉川凪氏が出演しているPodcast。
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