【エッセイ】散歩中にひまわりを見かけて、人生を楽しめる自分になりたいと思った
私は、ただ自分の人生を楽しみたいのだ!
楽しめる自分になりたいのだ!!!
会議中、机を両手で叩きつけ、後ろに椅子が倒れるのもお構いなしに勢いよく立ち上がりながら大きな声で叫んでいる私…を、ふと脳内に思い描いた。思い描いただけだけれど。
数日前、ふと、だけど強烈にそう思った。
少し歩きたい気分になり、ちょうど期限の迫った払込票を見つけて、コンビニまで歩いて行くことにした。
むわっとした湿気た空気と、セミの鳴き声、草と、土の香りもする。夏をダイレクトに全身で感じたのは、随分久しぶりな気がする。
私は本当に体力がなく、すぐに疲れる質である。
この乏しい体力でたくさんの事をこなすためには配分を考えなければなず、必然的に移動手段は、体力が温存しやすい車になる。
ちょっと歩きたい気分だなあと思っても、「でもここで歩いたら、疲れてその後何もできなくなるかもしれないよなあ」とか、「車で行ったら30分くらいで帰ってこれるんだよなあ」などと考えて、結局歩かない。その温存した体力で何をするのかという質問は一切受け付けない。
ただ私は、“ふら~と出かけて、たまたま見つけた素敵なカフェでお茶をする”といったことを、日常のひとコマに取り入れたいと願っている。そういう生き方ができる人に、私はなりたい。
そう願ってはいても、現実の私は、体力もなければ、いざ歩いたとしても1人競歩大会を開催してしまう。のんびりとした時間を楽しむことさえ、下手くそなのだった。
その日は、お腹のあたりがずーんと重くて、何にも集中できない日であった。何も手につかなさ過ぎて、いろんなことがどうでもよくなってきた。誰にも求められていない「効率」や「生産性」に対して猛烈に苛立ちを覚え、「非効率で非生産的で何が悪い!」と私は立ち上がった。立ち上がって、散歩に行くことにした。
自分でさえ、私はいったい何に追われているのだろうかと不思議に思うほど、私は常に急いている。急いているから、早歩きになる。そうして、時々足が上半身についていけなくなり、前傾姿勢で歩いている。
昔、同じような歩き方をしている人を見かけたことがあるのだが、それはすごく格好悪い姿だった。その人を見かけてから、歩くときは2分に一度、上半身と下半身のバランスを気にするようになった。その人には今でも感謝している。
意識してゆっくり歩いていると、手持ち無沙汰というか、何をしたらいいのかわからなくなってくる。散歩が好きな人はいったい何を楽しむのだろうか。
やっぱり景色だろうと、空を見上げてみる。いつも通りの空があって、いつも通り綺麗である。
晴れているけれど雲が多いおかげなのか、太陽が陰っている時間が長く、歩きやすい。曇り空とは違って“晴れ”の軽やかさもちゃんとあって、ついてるなと嬉しくなった。
空ばっかり見ているのも自分に酔っているような気がして周囲を観察する。
周囲に人などいないのに、傍から見て「散歩を楽しんでいるように見えているか」を意識している自分に気づいた。そんな自分に蓋をしようとして、人目を気にしないように意識した結果、異国の地を歩いているようなぎこちない歩き方になった。母国の、それも近所で異国を感じられるなんて、安上がりもいいところである。
小さいながらも本格的な畑の一角に、何十本ものひまわりが肩を並べて咲いている。
ひまわり。
太陽に向かって咲く花。
密集しているひまわりか、切り花のひまわりしか目にしたことがなかったのだが、1本ずつ等間隔に配置された4、5本のひまわりを見かけた。
細長い茎がひょろりと空へと伸び、てっぺんには大きな花が乗っかっている。支えはないはずなのに、どのひまわりも凛と背筋を伸ばして咲いていた。
私は、思わずぎょっとした。
その姿は、ただただ奇妙なのだった。
ひょろりと佇むその姿はどこか頼りないのに、圧倒的な存在感がある。背丈は私よりも高く、そのうちひょこっと土から足を出し、歩き始めそうである。
奇妙だな、と思いつつ、しばらくそのひまわりたちの逞しさから目が離せなかった。一輪一輪が己の力で立ち、凛と咲いていたことにハッとした。
ひまわりと自分を比べてため息が出た。
気がつけば、どこへ行くときも夫を盾にしている自分に引け目を感じていた私は、ひまわりと自分を比べて「花でさえこんなに凛としているのに…」と比べて落ち込み始めた。綺麗な花さえも「自分はダメな奴なんだ」と落ち込む材料にしてしまう己の思考回路に、一周回って感心する。
点と点を繋ぐ力を、何かもっと有益な、別方面に活かすことができないものか。
夫を盾にすることに慣れてしまって、「夫がいないとどこにも出掛けられない女」が出来上がった。1人で出掛ける勇気をケチり、そんな自分を正当化するために、内部に不満製造機を取りつける。ずばり、責任転嫁である。
この責任転嫁は、不満をぶつけるため夫婦間の空気が悪くなるうえに、心の奥底では「私は自分の弱さを隠すために夫を悪者にしている」と理解しているために、チクチクとした慢性的な痛みを伴うのでおすすめしない。
自分「が」、行きたい場所へ、自分「が」行ってくれない、という不満だと大人しく認めるほうが実は楽なのである。
わかっているのに、この道順でしか辿り着けないのは私が方向音痴だからだろうか。方向音痴は思考回路でも迷子になるのかもしれない。
物事を楽しめる自分になるためには、今はちょっと大きな勇気が必要で、いいとか悪いとかはなくて、ただ、それだけのことなのだろう。
到着したコンビニの店員は、戸惑うほど動作がゆっくりな女性だった。決して客を誘導しない、恐ろしく受け身な店員だった。それでも、受け渡しの際はきちんと目を見てくれるのだった。
私が料金を払い終えた後、お会計の列は4人ほど並んでいた。
その店員は動じることなく、ひたすら己のペースを貫いている。それでも、客の目を見られる人なのだ、きっと悪い人ではないのだろう。
世の中には、いろんな人がいる。
それで、いいのである。
とりあえず、ひまわりの根っこがどうなっているのか調べてみようと思う。