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【短歌エッセイ】熊本地震を経験して感じたこと

 5年前、熊本で大きな地震があった。「今までで経験したことのないような」と表現されたその地震の2日後に、それよりも更に大きな地震が起きることなど、誰も予想していなかっただろう。後に「前震」・「本震」と呼ばれる2つの地震を合わせて、「2016年熊本地震」と言う。

 震源に近い益城町程ではないが、私の住む熊本市も大きな被害を受けた。前震では、私の住居への影響は全くなかったが、本震では、部屋中に荷物が散乱し、いくつかの食器は割れ、電気も水もガスも止まった。

 翌日の日曜日、私とパートナーは、食料を確保するためにスーパーをはしごし、水を確保するために近くの小学校の給水車の列に並んだ。

 月曜に職場に出勤した私達は、同僚とそれぞれの自宅の被害状況について聞き合った。窓ガラスが割れた人、家にひびが入った人、家が傾いた人。半壊以上全壊未満、半壊、一部損壊など、状況は様々だった。

 職場には食料と水の備蓄があった。本来は、急遽被災して家に帰れずに職場に避難を余儀なくされた方のためのもの、という認識だったとは思う。しかし私は、職場の物品を扱う担当として、上司に食料と水の放出を求めた。

 偶々そこに居合わせた、他部署に異動したばかりの元上司は、「職員の飯のために非常用食料を使うなんて」と否定的だった。それくらいどこかの開いてる店で買えばいいじゃないか、という口ぶりだ。

 私は元上司の言葉をスルーし、当時の現上司に訴えた。「今使わなくていつ使うんですか? 職員だって被災者なんですよ」。どうせ使わず取っておいても賞味期限が来たら処分するものなのだ。活用すべき時に活用してこその非常用物品だ。

 私の進言で備蓄の食糧と水が開放されることとなり、同僚達からは「よくやった!」と喜ばれた。その後、日本各地の職場関連の同僚等から、熊本所宛てということで徐々に支援物資が届き、それぞれ感謝してもらって帰る頃には、自分達も被災者であるという意識は広まって行った。

 私の住居は、水と電気は早い内に復旧したが、ガスがなかなか復旧せず、復旧まで3週間以上を要した。お湯を沸かせず入浴できないため、数日に一度は片道一時間程かけて温泉に行き、温泉に行かない日は電子レンジで温めたお湯で体を拭いて過ごした。

 各自の復旧状況は日々同僚との話題だったが、「ガスは来てるんだけど電気がまだ」とか、「うちは水がまだで……」等、住む地域によって復旧にはムラがあった。広範囲に被災していると、どうしても一度に全部復旧させることができないためだ。

 公費による壊れた家屋の取り壊しも、あまりに数が多いためになかなか進まず、応急処置的な青いビニールシートが長期に渡って屋根にかかったまま、という建物も多く見られた。


 「ガリガリと 取り壊されて ようやくに 被災住居は 更地に還る」


 上記の短歌は、被災から一年経って詠んだものだ。つまり、取り壊しまで一年もかかってしまったので「ようやくに」というわけなのだ。「ようやく解放されたね、役目を終えてお疲れ様」という、壊された住居への気持ちだ。

 このように、実際に取り壊しを目撃すると色々感慨もあるが、普段滅多に通らない道を偶然通った時に見かけた更地は、また違う感じだ。


 「ここは元 何だったかと 首捻る 解体終えし 街角の地で」


 今ここにあるのは確かに解体を終えた更地。しかし以前建っていた建物が何だったか思い浮かばない。普段私達は、いかに多くの物を、意識せず何気なく見て過ごしているのだな、と改めて思わせられたのだった。





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瑳月 友(さづき ゆう)
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