言葉がとめどなくリアルを伝えたがるんだ|ハリケーンの季節|Review
うるわしき30代の一時期、ラテンアメリカ文学にハマっていたことがある。図書館の海外文学コーナーにあるラ米の小説を全部読み、集英社文庫の「ラテンアメリカの文学」シリーズを何冊も集め、古本屋で関係書を見つけると財布と相談して買うといった具合に、結構な数を読んだ。野谷文昭の半分思想書のような解説書も買ってフムフムと読んだ。
何を言わんとしているのかよくわからない本もまあまああったが、総じてラテンアメリカ文壇はバイタリティ豊かで、いろんな記述の挑戦を受け入れる先鋭的な風土があったと思う。
最も話題になったのがマジックリアリズム(魔術的リアリズム)だろう。
私が最初に読んだのは本家ではなく、その弟子筋のイサベル・アジェンデのほうだった。このチリの女流作家による『精霊たちの家』は、メリル・ストリープ主演で映画化もされたので知ってる人も多いのではないだろうか。そのあと『エバ・ルーナ』を読んでから、ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品にとりかかった。幻想的な要素を日常の一部に織り交ぜ、超自然的な出来事を自然体で描写するマジックリアリズムを、私は民族誌的記述のひとつの可能性として読んだ。
いま眼前にあるのは、ファルナンダ・メルチョールの『ハリケーンの季節』、原題『TEMPORADA DE HURACANES』という本である。
彼女(べラクルス州の1982年生まれ)は、メキシコの現代文学を代表する作家の一人で、暴力や社会的不平等、女性に対する抑圧といったテーマを力強く描くことで知られる。本著は2017年に発表されたもので、メキシコの田舎町を舞台に、ある魔女の死をめぐる事件を描いている。複数の登場人物たちの視点を通して、半グレや偏見やドラッグが日常化している現代メキシコ社会の姿を容赦なく描き出した出世作である。
久々に読んだラテンアメリカ文学に、私は強烈な既視感をおぼえた。ただそれはマジックリアリズムとはちょっと違ってた。
メルチョールは民間療法や呪いといった村の迷信に言及するものの、それは幻想ではなく、村人たちが抱く抑圧の象徴として描かれる。超自然的な力というより、むしろ彼ら自身が創り出す社会心理的な自縄自縛さ加減が物語の核である。メキシコの田舎での生きづらさが人々に、どうにも抜け出せそうにない閉塞感を植えつけている。だからきっと、超自然的な力を借りずとも、暴力と恐怖が人間を呪縛していく様をリアルに描ききれるのだと思う。
でも、マジックリアリズムの作品とどこか通底するものもここにはある。たぶんそれは、ラテンアメリカの庶民の日常の土台にあるもの=話し言葉の饒舌さなのだと思う。
メルチョールの文体は、乱雑さと仄暗いエネルギーに満ちている。地の文も会話も区別しない、改行なしのクサレ長い文章で、息をつく間もなく読者に物語を浴びせる。登場人物たちの語りは、それぞれの感情のうねりを伴って重々しい。視点を幾重にも重ねるマルチレイヤーなその筆致は、彼らの閉塞感と相まって、物語をよりリアルに感じさせる重要な要素でもある。
本著は読後も消えない不穏な余韻を残す。メルチョールはこの作品を通して、メキシコ社会に横たわる不条理の正体に鋭く切り込んだ(ひょっとしてカルテルから消されるかも)。その激しく鮮烈なリアリズムが、現実の持つ暗部を浮き彫りにしている。
なんだか中上健次の作風と似ている気がする。例えば、生まれ育った地方の輻輳的で濃密な人間関係を創作の出発点にしているところとか。とはいえ、中上の小説の中身はほとんど思い出せないのだけど……
暴力や性を赤裸々に描く過激な作風については賛否両論があるそうで、初老で、ラストベルトのトランプ支持者の如く保守的な私も、このへんの描写が長々と続くのに多少辟易としたことをそっと申し添えておく。
なお、この話はNetflixでドラマ化されているらしい。視聴環境がある人からの熱烈感想を求む。