アナログ派の愉しみ/本◎ブーバー著『我と汝』
イエス・キリストか
それとも一本の樹木か
マルティン・ブーバー著『我と汝』(1923年)の岩波文庫には、のっぴきならない思い出がふたつある。
ひとつは、高校時代の友人にまつわるものだ。かつてごく平凡な青春をともに過ごした間柄だったが、卒業して30年ほど経ったころ、かれから手紙をもらった。東京郊外のプロテスタント系の教会で副牧師となり、来週の日曜日に説教をするのでぜひとも聞きに来てほしい、との内容だった。わたしは過去に何度か教会へ出かけたことがあるものの、そこに集う信者たちのいかにも善良そうな顔つきに尻のあたりがムズムズするのがつねで、もう久しく足が遠のいていたのだが、一体、アイツがどんな説教をするものやら興味が湧いて重い腰を上げた。
当日、黒服をまとったアイツが教会の高い壇上から何を語ったか、覚えていない。それよりわたしの胸にグサリときたのは、集会が終わったあとに近くのファミレスでお茶を飲みながら旧交を温めたときのやりとりだ。伝道師になった事情を訊ねたところ、高校生のころ、オマエがブーバーの『我と汝』を貸してくれたのがきっかけだよ、との答えが返ってきて、椅子から転げ落ちそうになった。すっかり失念していたが、確かにそう言われてみればあのころこの文庫本に入れ込んで、周囲のだれかれかまわず吹聴した記憶がある。それにしても、と息を呑んだ。なんと恐ろしいことだろう、自分の無頓着な振る舞いがひとの人生を左右してしまうなんて……。
「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」
『我と汝』はこんな文章から始まる。ふたつの態度とは、ふだん日常的に経験している当たり前の〈われ-それ〉の関係と、もっと真摯に自己を世界に向けてまるごと投げ出す〈われ-なんじ〉の関係であり、後者の態度を取ることによって、初めて〈われ〉は〈われ〉としてありうる。すなわち、ひとはただひとりでぽつんと存在するのではなく、世界とのあいだに深い関係を結んで生きることができるというのだ。当時、フランスのサルトルやカミュの無神論的実存主義が孤独や絶望を突きつけるのに対して、このオーストリア出身のユダヤ系宗教学者が唱えた「世界との対話」による有神論的実存主義の哲学は(いまにすれば、こうしたレッテル貼りに大して意味はないとわかる)、孤独や絶望を乗り越える道筋を示して素朴なティーンエイジャーの血潮を高ぶらせる力があった。いや、この年齢になった現在だって、たとえばこんな具合の詩的な文章はわたしの心拍数を速めずにおかない。
「愛にともなう感情は非常に多くの種類を含む。悪霊にたいするイエスの感情は、弟子にたいする感情とはまったくちがったものである。しかし愛は一つである。感情は〈所有されるもの〉であり、愛は生ずるものである。感情は人間の中に宿るが、人間は愛の中に住む。これは比喩ではなく、現実である。愛は〈われ〉につきまとい、その結果、〈なんじ〉をただの〈内容〉や、対象としてしまうようなものではない。愛は〈われとなんじ〉の〈間〉にある。このことを知らぬひと、自己の存在でもって、これを認めようとしないひとは、たとえ、ものを感得し、経験し、楽しみ、表現する感情を愛であると主張しようとも、愛を知らぬひとである」
さて、この本をめぐるもうひとつの思い出は、岩波文庫の翻訳者に関してのことだ。大学に入ってみたらなんと、その植田重雄当人が教養課程の「倫理学」を担当していたのである。さっそく、わたしがおっとり刀で馳せ参じたのは言うまでもなく、かつ、こうした場合に予測されるとおり、最初の授業でがっかりしてしまったのも言うまでもない。およそあの熱を帯びた訳文からはほど遠い、ルーティンの白けきった講義としか受け止められなかったのだ(いまにすれば、ひとりよがりの哲学ごっこに興じるケツの青い学生相手に熱弁をふるいようもなかったとわかる)。
しかし、ひとつのエピソードだけは印象に刻み込まれている。前後の話の成り行きは忘れてしまったけれど、植田教授が教室の窓際に立って、きみたち、樹木と対話したことはあるか? と問いかけてきたのだ。樹齢何百年という木に出会ったら、その太い幹に耳をつけてみたらいい。自然の温もりが伝わってきて、内側では樹液の流れる音が聞こえるから、と――。おそらく、その言葉は若いわたしにとって啓示だったろう。これから世界と〈われ-なんじ〉の関係を結んでいくうえに、一本の樹木がイエス・キリストに匹敵することを教えてくれたのだから。