アナログ派の愉しみ/映画◎ジョルジュ・フランジュ監督『顔のない眼』
恐ろしいのは、美をめぐる
女性たちの椅子取りゲームだ
ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』(1960年)は、わたしがこれまで出会ったなかで最強のホラー映画だ、と断言してしまおう。かつてまだビデオが普及していなかったころ、民放テレビの夜9時からの「洋画劇場」が映画に接する身近な機会だった。中学生のわたしはある日、いかにも不穏なタイトルに誘われて、ひとりでそのモノクロームの映像と向きあい、約2時間後に番組が終了したときには瘧に憑かれたように全身がわなないていた。寝床で布団をかぶっても震えは止まらず、まぶたを閉じれば先刻のシーンがよみがえって、とうとう夜明けまでまんじりともしなかったのである。
のみならず、一種のトラウマと言ってもいいのかもしれない、それらのいくつかのシーンは潜在意識に深く刷り込まれたようで、最近に至るまで、ふだんは忘却していても何かの拍子にいきなりフラッシュバックしてはわたしを脅かしてきた。だから、このたび思い立って、その恐怖の正体を突き止めようとアマゾンでDVDを買い求めてからも、しばらくは目を逸らして放置しておいたぐらいだ。しかし、ついに実見におよんで自分なりに恐怖の内実を解き明かしたのにともない、どうやらトラウマからもやっと解放されたらしい。そのあたりを報告したい。
ごく簡単にストーリーを紹介しておく。なお、参考までに(★)印をつけたところが、長らくわがトラウマとなってきたシーンだ。
形成外科の権威、ジェヌシエ教授は、他人の組織や器官を移植したときに拒絶反応を引き起こす抗体を抑え込むため、患者の体内の血液を抜き取ってX線照射を行うという独自の方法を開発し、犬を使った動物実験では成功を収めていた。教授の研究所兼邸宅はパリ郊外の深い森のなかにたたずみ、そこでは交通事故で顔面に火傷を負った愛娘クリスチアヌが、婚約者とも別れて、ふだんは両目だけがのぞく仮面をつけて悲しみのうちに暮らしていた。やむにやまれず教授はクリスチアヌのために、助手のルイズ(あの名優アリダ・ヴァリが扮している!)が誘拐してきた女子学生を使って皮膚の移植手術に踏み切ることに……。地下室の手術台に固定された女子学生が目覚めると、クリスチアヌの筋肉がむきだしになった顔(★)があって絶叫し、ふたたび麻酔で眠らされた彼女に向かって教授とルイズが立ちはだかり、その可憐な顔の輪郭に沿ってメスを入れて力ずくで皮膚を剥ぎ取っていく(★)。だが、すでにふたりの女子学生を犠牲にしたにもかかわらず移植は失敗に終わり、彼女たちの行方を追ってパリ警察も動き出すなか、ルイズが3人目の女子学生をさらってきた夜、クリスチアヌは彼女を逃がしてやり、手にしたメスをルイズの喉に突き立て、実験用の犬たちを檻から解き放って父親を噛み殺させると、ただひとり純白のガウンをまとった仮面の姿で森をさまよっていった(★)。
ことほどさように、至ってシンプルな話だ。ハリウッドの得意とするスクリーンいっぱいに血肉が飛び散るようなホラー映画に較べたら、ほんの子どもだましと言えるかもしれない。実際、わたしはだまされたわけだけれど、いまにして理解できるのは、この映画の恐怖はひとえに美に宿っているということだ。そのひとつは、フランスのヌーヴェルヴァーグ運動の先駆けとなったフランジュ監督ならではの冷ややかな映像美であり、もうひとつは、ここに登場する女性たちが執着してやまないみずからの美である。
突然の事故で不運にも美を失ったクリスチアヌのために、かつて教授の手で美を取り戻した経験を持つルイズが先頭に立って、問答無用でさらってきた女子学生の美をクリスチアヌに移そうとする。いわばジェヌシエ教授は狂言回しに過ぎず、ここにあるのは女性たちの美をめぐっての椅子取りゲームとでも譬えらたらいいか。それが証拠には、顔面を失ったのが教授の娘でなく息子だとしたら、いくら美男子だったとしても、また、いくら父親が溺愛していたとしても、いまさら男子学生を誘拐して修復手術を施すなどはスラップスティックにしかならないだろう。その意味では、映画のなかで教授が一般市民に対して新たな移植技術の講演を行い、「人類の最大の夢は肉体の若返りである」と口にすると、すぐさま聴衆の中年女性がどっと押し寄せて押し寄せてくる場面がいちばん恐ろしいのかもしれない。
かくして、わたしはようやくトラウマから脱却できた。もっとも、半世紀近くにわたって連れ添ってきたあの恐怖がきれいさっぱり消えたと思うと、何やら貴重なものを失くしてしまったような気もするのだけれど。