アナログ派の愉しみ/映画◎伊藤大輔 監督『王将』

将棋がまだ
人生のドラマだったころ


藤井聡太という人物が出現してこのかた、将棋をめぐってはその若さと記録と勝負メシばかりが関心の的となって、しかもそれが政治経済のニュースと肩を並べ、テレビ・新聞のトップを飾って報道されるありさまに、まったく将棋に興味のないわたしは面食らってしまう。しょせん遊戯にまつわる話題ではないか。もちろん画期的な天才だとは理解しても、むしろそうであるなら、この人類世界の大転換の時代にせっかくの才能を遊戯などに費消するのではなく、もっと現実に役立つ技術革新や社会福祉のために使ってもらいたいと思うのだけれど……。

 
そんなへそ曲がりなわたしでも、明治の大阪が生んだ型破りの棋士・坂田三吉の半生を伊藤大輔監督が描いた『王将』(1948年)にはあっさり脱帽する。敗戦後間もない日本映画界にあって、大映社長をつとめる菊池寛が将棋は映画にならないと猛反対し、占領政策を指揮するGHQ(連合国軍総司令部)が戦前をテーマとする映画には厳重に目を光らせていた条件のもとで、しかも、将棋や囲碁、麻雀、競馬、パチンコなどの勝負事をことのほか嫌悪していたという伊藤監督があえて取り組んだのは、三吉の生きざまによほど惚れ込んだからに違いない。それが証拠に、このあともみずからのメガホンで同作品の再映画化・再々映画化を行っている。

 
物語は、明治39年(1906年)にはじまる。「天王寺の三やん」こと三吉は、長屋の貧乏暮らしで草履づくりを生業としながら、素人将棋に血道を上げ、「妙見はん」を信心する妻・小春の仏壇や、娘・玉江の晴れ着まで質に入れて将棋大会へ繰り出す始末。小春は玉江を連れて鉄道自殺までしかけるが、妙見はんのお告げで思いとどまり、土下座する夫に向かって、どうせやるなら日本一の将棋指しになりなはれ、と励ます。かくて職業棋士となった三吉は破竹の勢いで頭角を現し、大正8年(1911年)、ついに宿命のライバル・関根金次郎八段との対決の日を迎える……。

 
主役の阪東妻三郎は明治34年(1901年)生まれで、同じ時代を生きてきただけに、あたかも三吉そのひとのように喜怒哀楽を露わにする。将棋の駒を手にしたときの無邪気な喜び、かけがえのない妻子を裏切ってしまう哀しみ、また、盤上の真剣勝負に臨むにあたって一切の感情を殺した静けさ――。やがて、関根八段との対局で劣勢に追い込まれながら「2五銀」の奇手に打って出て勝利したときの有頂天ぶり、その手筋を娘の玉江から批判されて大立ち回りを演じたのちに、

 
「わいはハッタリで関根に勝ったんや!」

 
と、ついにおのれの卑劣さを認めた表情の凄まじさ、そこには鬼気迫る狂気さえ滲んでいた。こうした演技で阪妻にかなう俳優は存在しないだろう。そして、わたしだけではあるまい、三吉の無惨な姿を前にして震えに襲われるのは。だれだってこれまでの人生で、自分でも認めたくないほど恥ずかしい振る舞いで急場を凌いだ記憶を必ずどこかにしまっているはずだから。

 
のちに三度目の映画化(1962年)では、主役を三国連太郎が演じ、前年に発表されてヒット中だった村田英雄のうたう『王将』が華を添えたのだが、この歌にはわたしも思い出がある。東京・有楽町の東京国際フォーラムが1997年にオープンした際、記念行事の一環として上演された斎藤憐作『カナリア 西條八十物語』を鑑賞した。舞台の最終幕で、細川俊之が扮した詩人・西條八十が静かな晩年を過ごしていると、レコード会社の幹部が騒々しく押しかけて坂田三吉の資料を置いていき、それをひもといたかれが無頼の棋士とみずからの人生を重ねあわせて「吹けば飛ぶよな将棋の駒に」の詞を紡いでいく場面に、不覚にも声をあげて泣きじゃくってしまったのだ。

 
人生のドラマがまた別の人生のドラマと共鳴しあって、有名無名を問わず、水面の波紋のようにつぎつぎと連なっていく。ひとは決して孤独ではない。それこそが何よりのビッグ・ニュースだろう。若い天才の活躍ぶりにケチをつける道理はないし、将棋という遊戯に目くじらを立てるいわれもない。もはやそこに人生のドラマを見ることも、その葛藤の深さに共感することもやめてしまったらしい、われわれの側の問題なのだと思う。


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