『ティファニーで朝食を 』 を読んで 〜自由とは何か〜
私は大学生の時に、一度ニューヨークへの移住を試みたことがある。
大学は日本にあった。家も日本だった。
留学の経験もない、ニューヨークに知り合いは一人もいない。
それでもあの街に、「何か」があると夢をみた。
ただそんな思いだけで、飛び込めるエネルギーがあった。
若さというのは、本当に素晴らしい。
だが、きっとニューヨークというのは、そういう人たちの街だ。
さて、先週読み終えた『ティファニーで朝食を』は、
私に当時のことを思い出させた。
ホリーの一言一言が、私の心情と重なった。
今回の感想では、私のニューヨークでの生活も合わせて書いてみる。
この本は、アメリカの小説家である
トルーマン・カポーティによって書かれた中編小説だ。
みなさんは、おそらく映画の方が馴染みがあるだろう。
「moon river」のなだらかな曲調に、漆黒のドレスに身を纏ったオードリーが、早朝のニューヨークのティファニーの前でタクシーから降り立ち
ショーウィンドウを眺めるあの光景が非常に印象的だ。
そんな映画に隠れて、小説の方はあまり注目されていないが、
もちろん小説が原作である。
あの視覚的に美しい映画の細々とした光景が
目に浮かぶような文章である。
訳者はあの村上春樹。文末には村上氏の解説(新潮社)もついている。
小説を読んだ後、解説を読むことで二度楽しめること間違いなしだ。
さて、語り手は小説家になることを目指す「僕」。
そして同じアパートに住んでいたのが、
あのホリー・ゴライトリーである。
天真爛漫で、自然体で、豪快。
洒脱な見た目、生活感のない部屋、名のない猫。
そして、ティファニーをこよなく愛する人。
そんな彼女に、世の男たちは夢中になる。
華やかな世界を生きているが、何かに縛られることを嫌う。
いや、恐れているようにも見える。
何かに縛られるということは、つまり責任を持つということだから。
彼女はまだ、自分の責任を持つことで精一杯のようだ。
だから、猫にも名前をつけない。
さて、ここで私の思い出話を一つ。
かくいう私も、何かに縛られることを恐れてニューヨークへ行った。
そもそも東京に出てきたときも、気高い猫のように一人歩きできる環境に
とてつもない開放感と幸福感を味わった。
何もかも手に入る街、そして誰にも会わない街。
自由というものを手にした気がした。
だが私は、未来に対して不安を抱いていた。
いや、大人になって自由を失う未来が怖かった。
特に、私の自由を一番奪うと感じていたのが、老いだ。
若ければ、みんなが期待を抱いてくれる。
人生で最も価値のある「若さ」を、このまま日本で生きることで
無駄にしていいのだろうか。
若いうちに、世界を渡り歩く、本当の意味での自由を手にしたい。
そう、私は「若さ」というものに焦りを感じていた。
そこで、大学の単位を三年間で片づけ、
四年生のときにたった一人でニューヨークへ旅立った。
私自身、こんな経験があるものだから、
勝手にホリーには共感をしてしまう。
彼女も、若さに焦りを感じていたのではないか。
特に彼女は美貌を持っている。
田舎出身の彼女は、自分の若さ・そして美貌が
今が一番価値があることを知っていた。
そこで彼女は、田舎町を飛び出し、すべてのものを
投げ打って、ニューヨークの街へ来たのだろう。
彼女にとって自由とは若さのことではないか。
そんなふうに感じてしまった。
彼女は最後どうなるのかは、この小説の中では描かれない。
私は、若さを失った彼女は、どこかで”本当の意味”での
「自由」を手にしたのではないかと感じている。
若さ=自由ではない。ニューヨークの街=自由ではない。
今の自分にはそれがよくわかっている。
何かに”縛られる”こと、それこそが本当の自由なのではないか。
ホリーにも幸せな自由が訪れていることを祈るばかりである。