1980年代における日本原発妄想史の解明(その1)
※-1 本記述の目的
最近,新聞の切り抜き資料を整理・始末・廃棄などしようと,その「ゴミ出し作業」をしていたところ,「原発1980年代・スクラップ」という大封筒のなかに一括して入れたあった「原発関連の記事切り抜き」が数十点みつかった。
そのような事情がたまたま生まれてきたところで,これらのスクラップ資料はブログの記述に使えるという判断のもと,できればこれらを数回に分けて,しかもなるべく長文にしない要領を留意しながら,原発の歴史を,
それも世界のなかでは,けっこうな「原発体制先行国であったこの日本」の「原発の問題史」をめぐり,それも1980年代に限られるがその断章的な小考として,同時にまた,この内容じたいをなるべく本質論的な議論とする努力もしつつ,連続する記述になればという見通しを立てて書きはじめることにした。
補注)なお,チェルノブイリ原発事故の地名「チェルノブイリ」は,現在のウクライナ語を尊重して表記するとしたら,「チョルノービリ」と日本語で表記されている。ただし,本記述内では事故発生当時の呼称に統一しておく。
※-2 チェルノブイリ原発事故1986年4月26日
1)熊沢正雄「極めて特異,ソ連原発事故-日本ではあり得ぬ運転規則違反-」『朝日新聞』1986年11月4日朝刊「論壇」
なお,熊沢正雄の当時の肩書きは「日本原子力研究所理事」であった。この1986年の4月26日に,当時のソ連邦において発生したチェルノブイリ原発事故は,原発事故の評価基準と区分すると,一番重大かつ深刻な(過酷な)「7」であった。
ともかく,熊沢正雄が『朝日新聞』1986年11月4日朝刊「論壇」に投稿した「極めて特異,ソ連原発事故-日本ではあり得ぬ運転規則違反-」という論題の原発擁護論は,いまから評定するとしたら,いわば「JAPAN as No.1」時代の驕慢的な精神を,横溢させていた。
その副題「日本ではあり得ぬ運転規則違反」だという熊沢正雄のいいぶんは,いま現在の時点であってもそれと同じせりふを,勇気をもって「もう一度いえるか?」と問われて「しかり」と応える者がいたら,これは「笑いものにされる程度」の,科学的にはもちろんのこと,「日本の原発体制全般」が持続的に潜在させてきた「原発運営技術管理」「問題の真相」に関して,理論的にも実践的にも「嘘八百の発言」になる。
もっとも,1980年のこの国「日本」は,経済大国になっていた最盛期にかかっていたせいか,政治的な自信に満ちあふれる国家体制にもなっていたゆえ,またいえば,原発体制そのものが国策民営の管理体制のもと,「地域独占・総括原価方式」を保障されていた当時の各地域の大手電力会社が「そこのけそこのけお馬が通る」の拡大版を実現させえていた時代でもあったゆえ,そのような虚偽と欺瞞に満ちていたはずの「原発技術管理問題」の操作・実態について,わずかの疑念さえ抱くことを拒絶できていた。
しかし,すでに1979年3月28日に,アメリカのスリーマイル島原発事故が事故レベルとしては「5」段階の原子炉内溶融事故を発生させていた。この原発事故がアメリカにおける原発のさらなる普及に対して大きなの歯止めになった事実は,世界における原発史を回顧するとき無視しがたい重要な背景を形成した。
2) もっとも,技術管理問題としては恐るべきことに,最近,つぎのような報道がなされていた。『Reuters』の記事から借りて,その事実をしっておきたい。
ビル・ゲイツは原発推進派の立場でこれまで活動してきた大企業家であった。その人物が原発を,それもスリーマイル島原発事故で事故を起こした「2号機は再稼働されない」(?)などと,きわめて異様な報道をロイターにさせるような動きをしてきた。
【参考画像】-スリーマイル島原発関連資料-
1979(昭和54)年3月28日,アメリカのペンシルベニア州スリーマイルアイランド原子力発電所の「2号機での事故」が発生していた。その事後については,つぎのように措置されていた。
その2号機が原発内の放射線量を下げてから,デブリの取り出しを開始できたのは事故の6年後になった。
その後,開発した掘削装置で取り出しをつづけた結果,事故から11年後に全体の99%,130トンあまりの「燃料デブリ」を取り出し,作業を終えていた。
補注)東電福島第1原発事故現場に残されているデブリは,約880トンである。こちらは,スリーマイル島原発事故現場とはまったく事情が異なり,その取り出し作業には実質に入れていない。
〔記事に戻る→〕 さらにその後は,隣接する1号機が運転を継続していたこともあり,原子炉や建物はそのままに残されていた。
ところが,原発が好きであったビル・ゲイツは,当面する電力需要のために,つまりAI事業の展開が大量の電力を需要する必要性に対して,当面の電力供給力源としてスリーマイル島原発1号機に目を着けたことになる。
3) アメリカでは日本の原発事情とはいささかその経営状況を囲む経済事情が異なっており,いわば「経済の論理」「営利追求原理」が正直に,いいかえればビジネスライクに,さらにいいかえれば
“business is business” という観点から徹底される典型的な資本主義の国柄ゆえ,ビル・ゲイツのように「廃炉にされるべきスリーマイル島原発」の1号機の再稼働となるような,自社の事業展開を志向しだした。
そうしたビル・ゲイツの動きは,彼自身が原発推進派の立場・イデオロギーを有したとはいえ,はたして,スリーマイル島原発で1号機そのものをさらに再稼働させるためだといい,電力供給に関して特定の契約をすることを決めていた。
つまり「完全なる老朽原発」であり,半世紀も時間が経過した現段階においてこの1号機を稼働させるとは,観光用SLの動態化復活運転の試みでもあるまいに,ある意味では狂気の沙汰である。
アメリカでも屈指の起業家でいまは大金持ちのあるビル・ゲイツが,再生可能エネルギーの諸分野へは進出せず,わざわざ原発,それも事故を起こしたスリーマイル島原発2号機のそばでこれまで稼働させていた,しかも最近,廃炉になっていたその1号機を復活させて実際に発電に利用するというのは,下手をするとゲイツの起業家精神にも重大事故を惹起させかねないのではないか,などと老婆心ながら口出ししたくもなった。
※-3 チェルノブイリ原発事故が起きたあとでも,「原発万歳の広告攻勢」を絶対に止めなかった電気事業連合会の「虚偽と欺瞞の基本姿勢」-ゲッペルスのあの有名なセリフを思いださせる日本の原子力村の世界観・価値観は,さすがに21世紀のいまとなっては通用しない-
さて,ここに紹介するのは1987年1月29日に『朝日新聞』朝刊22面に電気事業連合会が出稿していた「原発広告」の一例である。
格別に注意して読まなくとも,多少は原発問題の現状を意識し,それに批判的な観察眼をもちあわせている人たちであれば,2024年10月下旬のいまとなってあらためて読んでみるとしたら,この広告に書かれている文句は,空論的な偽説以外のなにものでもない。
「小食の原子力発電」だといわれても,実際には立地している地域環境に与える有害性は,大食漢が自分のお尻の穴から排泄する大量の汚物に酷似していた。
もっとも,1980年代も後半の時期,それもチェルノブイリ原発事故が発生したあとになってもこのように,原発体制「万歳:マンセー!」を,平然と高唱できていた原子力村側の精神構造の図太さとその無神経さには,呆れる以上にまさに〈恐怖の言論態勢〉の〈押しつけ〉そのものであった。
※-4 槌田 敦「日本の原発も安心できない」『朝日新聞』1986年11月24日朝刊「論壇」
この槌田 敦が※-2の 1) でとりあげて討議した熊沢正雄の原発観を批判していた。同じ『朝日新聞』「論壇」上でのやりとりとなった議論の経過となる。
だが,この程度の間違い指摘にはビクともしないのが「原子力村側の団結心」の「頑迷さ」かつ「途方のなさ」でもあった。1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故は,それこそ世界中の原子力関連研究者たちを驚愕させたはずであった。
にもかかわらず,日本の原子力村界隈では「あれはソ連にだけの極めて特異な原発事故だった」という,科学的根拠とは無縁の断定を下しておき,ひたすら他人事=他国事として済ませようとしていた。
しかし,そうした科学技術論の基本姿勢に関してならば,「極めて傲慢で横柄な精神構造」に囚われていた日本の原発事業関係者は「他国にはありえぬ」ような,それも「自国特別視」に逃避したがごとき,実に末恐ろしい「原子力エネルギー感」に固執してきた。
こうした日本側の,21世紀のいまふうに表現するとしたら「日本原発はスゴイ的な世界観」に,自分の脳細胞を冒されてしまったも同然の,いわば自国ナルシズム的な科学技術観あるいは工学雑想感は,たとえばつぎの※-5で関説する「その後に発生した自然災害の発生」によって,われわれ「人間の造ってきた構造物が破壊される」事件を介しても,その不埒さ・高慢さを粉砕されていた。
※-5「第十七段:阪神・淡路大震災から26年 ~その1年前のノースリッジ地震と阪神・淡路大震災~ 」『DMA』https://dma-fmiura.com/entry42.html
阪神・淡路大震災の起こった1995年1月17日のちょうど1年前の19941月17日(アメリカ西海岸の時間で),ロサンゼルス北東部で地震が起こった。
テレビや映画でよく山の斜面に白い文字「HOLLYWOOD(ハリウッド)」の看板をみることがあるが,地震はその山の北側,サンフェルナンド・バレー(バレーとは渓谷という意味で,確かに遠く山に囲まれているが,とても広い平野で日本人の感覚では,とても渓谷という感じがしない)にあるノースリッジというところが震央だったので,ノースリッジ地震と名づけられた。
マグニチュードは 6.7。阪神・淡路大震災より 0.6マグニチュードが小さな地震であったた。マグニチュードが 0.2違うとエネルギーは約2倍違ってくる。0.6違うということは,0.2の3倍,すなわちエネルギーは,2倍を3回かけ合わせて,2倍 x 2倍 x 2倍=8倍違う,すなわち,ノースリッジ地震のエネルギーは阪神・淡路大震災の約8分の1ということになる。
ノースリッジ地震の震源は阪神・淡路大震災と同様,活断層が動いて起こった地震で,震源の深さは約15㎞と浅い所であった。死者61名,負傷者5400人という多くの犠牲者が出た。
この地震の被害の特徴は,電機,ガス,水道などのいわゆるライフラインの被害,そしてマスコミなどで大きく報道された高速道路の高架橋の落橋や崩壊などであった。
これら高架橋の被害をみて,橋の耐震を専門とする日本の研究者が「日本ではこのような被害は起こらない」といい,マスコミにも取り上げられた。〔この記述の筆者=〕知人のコメントもテレビでみた。
実は,私〔同上〕もこの地震の被害調査に学会の調査団の1人として,地震発生から2か月後の3月に現地を訪れた。私の調査の担当は上水道と下水道施設の被害であったが,当然高架橋の被害の様子もみることができた。
第一印象は,柱(橋脚)は細い,鉄筋量が少ない,といったことで,正直,私もこれでは被害が出てもおかしくない,そして件(くだん)の橋の耐震の専門家と同様,日本ではこんな橋の被害は起こらないだろう,と思ったのである。
ところがちょうど1年後に神戸で同様に高架橋の倒壊が起きた。まさか,というのが実感であった。しかし,その後の調査で,耐震設計に使った地震力をはるかに超える地震力が高架橋をはじめ多くの建造物に作用したことが徐々に明らかになっていた。
これはその後の耐震設計の考え方を根本から大きく変えることになった。
(引用終わり)
さて,原発の事故発生に比較する話となれば,この原発という理工学的な構造物じたいに関しては,いままでの「その後の耐震設計の考え方を根本から大きく変えることになった」経緯が,原子力核工学の原理が応用される原発という電力の生産装置・機械についても記録されてきた。この事実を否定する原子力村の関係者はいない。
実際問題,日本で2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災,これにともない発生し,三陸沖から太平洋岸の東日本各地に襲来した大津波は,1994年1月17日にアメリカ西海岸で発生したロサンゼルス北東部地震,1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災とも,いろいろな意味あいで深い関係性を有していた。
そうした事実は,地震国である日本という国の地球環境が置かれた位置関係に鑑みれば,自然(じねん)という本来的な素性を完全に無視してきた人間側が,その無言の仕返しと受けたのだという認識が必要となる。
※-6「自然(しぜん)と自然(じねん)」『住職のたあいない話』2021年8月23日,https://myouenji-kagawa.com/2021/08/23/自然(しぜん)と自然(じねん)/
この仏教徒・住職が語る「自然(しぜんとじねん)」という漢字:ことばの意味は,原発の人間・恣意的な利用の完全なる間違いを,自然に物語っていた。※-5までの記述を踏まえてもらえれば,引用そのもの以外の贅説は無用。
なおそれでも最後に,一言だけ付言しておく。人間は自然を超えた存在であった原子力を原発に利用してしまった。
おまけに,原発が自然の一部ではありえない事実,収まりきれない怪物であった事実まえも,簡単にないがしろにできると勘違いしてきた。
なによりも,自然を「支配しよう:できるのだ」と思いあがったあげく,原爆を転用して原発も造り,それもまるで本来は目的外であった電力の生産に振り向けてきた。
しかしながら,その結果が自然の破壊,そしてさらには,大破壊へと連なり悲惨な結果を過重的に招来させていく。
これからも原発の基数を増やしていくつもりか? そのうちに,一部の「ビル・ゲイツやイーロン・マスクみたいな超大金持ちたち」だけが,自分たち専用の宇宙船を造っては,この地球から脱出を試みる機会が生まれないとは限らない。
21世紀にまさか『ノアの箱舟』か? だがこちらの舟は,あくまでも地球上を移動する旧約聖書物語であった……。こちらの舟の話題はまだ夢があった。本当の話だったとしても,である。
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