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アニメ版『僕の心のヤバイやつ』批評⑤-真賀田四季の問題ー

1.はじめに

 さて、アニメ版『僕の心のヤバイやつ』の批評も五回目。どんどん批評が深まっているといいんだけど、どうだろうね?

https://bokuyaba-anime.com/

 関根萌子の恋に入る予定だったんだけど、批評の道具の心もとなさが気になって、仕方ない。仕方ないので、道具を鍛錬することに。

 しかしね、そこまで、抽象的な概念とか、理論とか、整理整頓することにこだわらなくてもいい気がするのね。

 それに合わせて、食材を切ってしまったり、食材の食べられる部分を特定してしまっては、食材の良さを引き出したり、食べられるのに、捨ててしまう部分を出してしまったりするから。

 でも、抽象的な概念や理論は、深い所に切り込んだり、一見、繋がりを持たない者同士を繋ぐのに、とても便利なんだ。

 だから、僕はそれにこだわる。こだわり過ぎると、本末転倒を起こしかねないけど、そのバランスはゆくゆく身に付けることにするよ。

 さて、交差型のパワポを大幅にアップデートして、掲載する約束だったね。アップデート版は以下の通りになったよ。

 何だか、書き込みが増えて、変な矢印も増えた。少しだけ説明というか、これまでとは違っている点について、言及したいと思う。

 まず、前回の最後で、左側が男性的で、右側が女性的だって、口にしてたじゃない?あれ、もう少し踏み込むと、浸蝕型に男性性、心中型に女性性が重なるって、そういうことだったんだよね。

 いや、何言ってるのか分からないって?今はそっとしておいて。

 それと、「引け目」が右側、左側、両方にかかるものだと気づいた。これは、失態だね。「恥」の方にも、「引け目」の意味合いがあったんだよ。

 そして、「恥」と対になる概念が「罪」だということも見えてきた。これは、今回の批評の内容に関係しているから、読めば分かると思う。

 とりあえず本編に入りたい。そうして、批評の道具である、交差型の整理を進めたい。新たな問題も出てくるかもしれないけど、頑張るよ。

 で、今回は、寄り道して、『すべてがFになる』を批評していくよ。特に、真賀田四季の思春期的な問題について、取り上げるよ。

 今までずっと気になってたんだ。時々に考えては、批評を断念してきた経緯がある。だけど、交差型を使えば、解けるかもしれない。そういう期待も込めて、取り上げるよ。

 これ、実は、市川京太郎(以下、京太郎)とは真逆の思春期的な問題なんだ。だから、比較検討すると、さらに、面白い結果が出てきそうだ。

 早速、批評していくよ。

2.真賀田四季の通過儀礼

 ミステリー作家、森博嗣が生み出した工学の天才、真賀田四季。S&Mシリーズを中心に展開される、森作品の中で、類いまれなる頭脳を持つ天才。

 S&Mシリーズ第一作『すべてがFになる』と『四季』シリーズ。これに、真賀田四季の人生が描かれている。特に、後者は幼少期から詳しく。

 今回は、真賀田四季(以下、四季)の思春期的な問題を取り上げる。

 先ほど、京太郎とは真逆の思春期的な問題を抱えていることを指摘しておいた。京太郎は思春期の躓き問題を抱えていた。

 それは、突き詰めると、身体、この未知なる大地の発見と、社会との初めましての出会いとなる。それで、心理的な傷つきを抱えたわけだ。

 四季の場合、躓かなかった、躓けなかったことに問題がある。

 『四季』シリーズ第二巻。十四歳になった四季は、特に、精神と身体との乖離が問題だった。社会との関係は後々問題になるけど。

 四季の精神には「力」が充満し、時間と場所に関係なく、分散型平行処理を行い、常に精神で、演算とシミュレーションを繰り返している。

 「力」、それは、純粋なエネルギー量の問題でもあるし、処理能力の問題だ。四季の場合、身体の限界を突破し、身体と精神の接続が弱い。

 それが、問題?

 どんどん強くなる「力」(成長期の脳の発達問題)と二次性徴を迎えた身体(未知なる大地)がすれ違い、どちらの制御も利かなくなる。

 四季は瀬在丸紅子に、この問題の解答へのヒントを得た。「力」を低速にする、遅くするやり方を。それが、対幻想だったのだ。

 対幻想が身体と精神の接続不良を改善する、そして、制御可能性を取り戻すことに繋がる、と。四季はそう判断し、行動に移る。

 四季は大好きな叔父様こと、新藤清二(以下、清二)を選んだ。彼は、妻帯者だったし、本当に、血縁的な関係のある叔父だったにもかかわらず。

 四季が清二と関係を持つ下り。女性性の符牒が沢山散りばめられている。エンジン音、トンネル、海、森、山、などなど。

 対幻想も見られる。運転席と助手席、ステアリング。

 ホテルで、二人は関係を持つ。四季は清二と二人きりで孤島に住み、原始的な生活をする夢を語る。だが、清二は消極的だ。

 これは、『ロビンソン・クルーソー』問題。自分の所属している社会からどれだけ離れても、その社会のメンバーであるということ。

 清二は社会意識を捨てられない。それほどには、歳を取ったし、それほどには、凡庸だったのだ。四季の当てが外れたとすれば、ここ。

 四季個人の問題、精神と身体の乖離を止めるには清二が必要。だけど、清二は社会からの承認がないと、四季と関係を是認しない。

 そして、四季には子どもができる。

 子どもができたことが、四季にとって、どのような意味があったかは分からない。だが、清二との関係を両親に報告する決心になったか?

 最初、四季が両親を殺した話を読んで、理解できなかった。どうして両親に報告する必要があるのか、彼らを殺す必要があるのか。

 両親に報告したのは、清二との関係のためとして、殺したのはなぜ?

「人形が殺した。私はそれを見ていた」

 四季は西之園萌絵(以下、萌絵)に、両親をどうして殺したのか尋ねた時、こう答えている。

 さて、人形とは何なのか?「それを見ていた」?

 これは、四季の元々の問題を振り返れば、一目瞭然。精神と身体の接続の希薄さが問題だったのだから。

 どういうことか?

 二次性徴を迎え、未知なる大地としての面目躍如の身体が、精神とは別に、両親を殺しにかかった。制御不全がそこにあったのだろう。

 精神がそれを見ていた。「力」の問題で、身体とかい離した精神がその様子を観察していた。だから、人形は身体。見ていたのは精神。

 だが、どうして人形=身体は殺したのか?

 まず、交差型を使って、四季を中心に、四季と四季の両親と清二を分類したい。すると、人形=身体が両親を殺したメカニズムが見えてくる。

 四季は心中型である。清二は公認型の相手だ。真賀田左千郎(以下、左千郎)は浸蝕型の第三者で、真賀田美千代(以下、美千代)は証人型の第三者だ。

 清二は四季との関係で、浸蝕型の第三者を意識している。そして、公認型として、「罪」の意識を抱き、内省している。

 「罪」。それは、社会の禁を破ったものが背負うもので、善悪の判定を伴い、罪人として悪のレッテルが張られることに。

 とりあえずそういうことにしておく。

 清二の「罪」の意識が、四季との対幻想を阻害する、「名もなき第三者」の影をもたらすため、四季はこれを取り除こうとしたと思われる。

 だが、それは、失敗に終わった。

 左千郎は清二に「近親相姦は罪だ」と咎めた。近親婚など、認められるわけがない、と。左千郎は第三者の浸蝕型として、二人に関わる。

 美千代はオロオロと「恥」を意識している。これは、世間に顔向けできないというような「恥」の感覚だ。

 「恥」。これは、曝せない弱みがある、弱みを曝しかけている、弱みを曝してしまった。そういう時に、発動するみたいだ。

 これも、後々変わってくるかもしれない。

 この時、美千代は家族の単位で自分を計り、恥じ入っている。証人型の第三者として、恥じ入る側に回っている。

 ちなみに、「罪」がトップダウンで、社会規範を振りかざすのに対して、「恥」がボトムアップで、人の集いの成立に照準する。

 別言して、「罪」も、「恥」も、社会的な感覚・感情だけど、他者とその判定のセットを考慮した場合には、「罪」が判定に重きを置くのに対して、「恥」は他者との関係に重きを置く。

 世間と身内を考えた時、身内でも、世間を背負って、「罪」を咎めることがあれば、世間での体裁を気にして、「恥」を感じる時もあるわけだ。

 話を元に戻すと、とにかく、失敗したのだ。

 精神と身体の接続不良を抱えていた所に、接続の不可能性を突き付けられて、身体が対幻想の実現を拒まれた結果、その阻害因の排除に動いた。

 自動的に。ためらいもなく、躊躇もなく。精神、意識、これこそが、躊躇いの正体であり、人形には躊躇いなど、望むべくもないのだ。

 これは、対幻想と共同幻想が極度の緊張に陥った瞬間であり、対幻想が共同幻想を駆逐しに行った瞬間だった。

 そう、交差型はもともと二次性徴と社会性の発達が交差する際の緊張を描き出すための概念モデルだった。それが、臨界点を迎えたのだ。

 四季は、この両親殺害の折、別々のことを話している。

 これは、人間の尊厳の問題であるということ。それは、両親に対して。だが、清二に対しては、子どもが育つまでの間生きながらえて、罪を償おうと言っている。

 それで、一緒に死のうと。

 尊厳。これは、四季が自由に冠する言葉だ。確かに、社会の禁に絶対はない。それは、便宜的なものに過ぎない。それぐらい、生命には自由度があるのだ。

 両親は社会意識に縛られていた。

 子どもの四季の自由を認めなかった。純粋で、比類なき自由。便宜的に過ぎない社会のしばりに囚われて、どうして自由を認められないのか?あなたたちに尊厳があるのか?

 これは、「罪」なんて存在しないと口にしているようにも聴こえる。

 しかしね、危険だよ。この考えは。『罪と罰』のラスコーリニコフの論文を思い出すね。彼が雑誌に投稿した、天才について書いた論文だよ。

 天才は何でもやっていい。人を殺してもいい。天才は時代を前に進めるのだから。天才には全ての罪が許されている。罪に問われることはない。

 だけど、天才を見分ける方法は?

 そう、そんなものはない。自分が天才だと思い込んだ人間が増えたら、世の中はめちゃくちゃになってしまう。だから、この考え方は危険だ。

 四季の考えには似たものを感じるね。でも、例えば、革命は、尊厳をめぐる闘争で、僕たちはそれの価値を、ある程度認めることができると思う。

 だから、この問題は難しい。

 とにかく。それは、横に置いといて。

 清二に対しての発言は「罪」を認める発言をしているように見える。だから、一見すると、矛盾している。だけど、これは、清二に対するリップサービスではないかと思われる。

 清二は四季が両親を殺すシーンを目撃し、手伝いもした。そうして、清二は「罪」の意識を持った。今度は、人殺し、肉親殺しの「罪」だ。

 清二が「罪」に囚われていては、四季は対幻想を達成できない。もはや清二から共同幻想をノックアウトできなくなったのだ。

 だから、死によって、二人の永遠の愛を成就するのだ。

 以前、僕の連載にて参照した『恋愛の授業』は、ドイツ語の恋愛作品を取り上げて、恋愛観や恋愛の事例を総攬しているけれど、このタイプはロマン派の作品によく見られるとか。

 そう、四季は別に、「罪」を真に受けてなどいない。問題はどこまでも対幻想の成就にあると考える。でも、本末転倒では?

 四季は身体と精神の接続不良と制御の不可能性が問題で、対幻想を、清二との関係を進めたのではなかったか?

 僕はそう思った。

 でも、あえてフルネームを使わせてもらうが、この真賀田四季という天才には、生への執着そのものが乏しいのかもしれない。

 そして、清二は手段でもあったし、彼自身が目的でもあったのだろう。だから、生死という問題を前にして、清二を選んだ。

 そういうことなのか?これは、愛なのか?

 結局、四季は姫鹿島の研究施設に軟禁され、ずっと施設の中で生活することに。清二は医者なので、その施設の専属医師として赴任。

 その間に、清二との子どもが生まれ、四季は子育てをする。

 四季と清二は彼らの間にできた娘が育つのを待ち、娘に四季と入れ替わらせて、四季と清二を殺させるという、計画を実行しようとしていた。

 四季の娘が十四歳になるのを待って、彼らの計画は、滞りなく実行されるはずだった。だけど、娘が計画を前にして、自殺してしまう。

 この辺りの理由ははっきりとは分からない。憶測はできるけど。

 娘には母と父を殺すなんて無理だった。苦悩した挙句、自殺した。ひょっとすると、自分が死ねば、二人が生き続けてくれると思ったのかもしれない。

 自己犠牲の愛?

 計画は変更。四季が軟禁されている部屋から出て、清二を殺害。島から逃亡した。清二の後を追うことなく、一人で。

 姫鹿島の施設での四季は社会から隔絶されている。軟禁されていることによって、その中の空間は、共同幻想と接触する機会がない。

 しかし、その扉を開ける時、共同幻想が一気に浸蝕してきた。そして、代償は支払われた。そう、解釈することは可能だ。「罪」の路線で。

 清二の後を追わなかった理由は何だろう?約束していたはずなのに、計画が破たんしたから?だが、対幻想の成就はどうしたんだ?

 理由の一つは、娘の細胞を持ち出して、娘を再生するためだ。

 もちろん、再生したって、クローンでしかないことは承知の上だ。でも、それを、どうしても命として残したかった。命として吹き返したかった。

 それを成し遂げた後も、四季は生き続けた。これは、娘の意志によるのか?それとも、天才の気まぐれなのか?ここも、考えてみたい。

 四季の通過儀礼だった。

 清二との関係も、親殺しも、清二の殺害も、全て、四季の通過儀礼。こう考えると、すっきりと物事を理解することができる。

 通過儀礼では、三つの段階と二つの機能がある。三つの段階とは、①分離②通過③統合であり、二つの機能とは、①性別の分離②聖俗の分離だ。

 ①性別の分離は、清二と関係を持つことによって、実現している。①分離の符牒は清二と四季がホテルで交わるまでに沢山あったし、②通過③統合がなされたことは、察せられる。

 ①分離。男女が交わり始める。②通過。お互いの境界がなくなる。③統合。それから、交わりが終わって、男女という性別が確定する。

 それで、対幻想の通過儀礼は完了する。

 ②聖俗の分離。親殺しの舞台は姫鹿島。研究施設ができたばかりのささやかなパーティを開いた時だ。お祝いの席で殺しがなされた。

 分離の符牒は今度も散りばめられていた。空間的にも、時間的にもなされている。時間的?つまり、お祝いの席だったってこと。いつもとは違った時間。

 ①分離。清二と四季が身体の関係を持ったという主張が、①分離のきっかけになり、親殺しをすることで、分離が完了する。

 ②通過。これは、聖俗の境界の破壊。宗教的な自由と尊厳の問題で、俗世の親殺しの禁を冒した。だから、宙ぶらりんの状態に。

 ③統合。これによって、俗世に着地して、聖の世界との分離を成功させる。この際、四季は罪を贖わされたかに見える。

 それで、共同幻想の通過儀礼を完了した。

 通過儀礼によって、四季は二次性徴を達した未知なる大地としての身体に出会い、社会意識の発達の結果として現れる「社会」と遭遇した。

 そして、四季は抱えていた問題をクリア。

 S&Mシリーズの主要キャラクターの犀川創平が四季の親殺しについて、「あれは彼女の内部で起こったこと」と言っていた意味は、四季のそれが通過儀礼だったと見抜いてのこと。

 対幻想の心中型を決していたのは②聖俗の分離の②通過の時点。それは、確かに、そうなるよね。だから、③統合を迎えると、変わった。

 そして、通過儀礼をし終わった四季は死ぬでもなく、生きるのだ。清二の後追いもせず、母としての愛を四季なりの形にしたりして。

 そして、Gシリーズなどを見ると、四季が社会実験に加担しているのではと思しき記述がある。四季の目は社会に広がっているのだ。

 少し補足しておくと、京太郎と四季はこの通過儀礼の順番が逆だったとも考えられる。それは、性差として考えてよいものか悩み所だ。

 女性の方が早く性的にも、精神的にも、成熟する。精神的な成熟を、性的な成熟が先んじる。それは、そうかもしれないけれど…。

3.終わりに

 今回はため込んでいたものを吐き出せて、少しすっきりした。でも、四季について全てを描き切れたわけじゃない。だから、満足はしていない。

 例えば、四季はどんな思想の持ち主で、どんな研究をしているのかに触れることができていないし、まして、多重人格者であることにも、触れることができていない。

 まぁ、四季の最大の謎の一つを少しは理解できたんじゃないかな?

 それに、今回、交差型を深められたのではなかろうか?

 交差型を深められれば、もっと、他の作品、もちろん、『僕の心のヤバイやつ』を批評する際もスパスパとよく切れるはずと思ってのこと。

 まぁ、『僕の心のヤバイやつ』ばかり批評していると、ちょっとそれから離れたくなる時があるんだよね。今も、にゃあの恋を考えてるし。

 萌子の恋。これは、『恋愛の授業』の一対(一)の恋愛の人、フランツ・カフカを紹介してる所を参照しながら、やりたい。

 少し先行して、話すと、一対(一)は皆のお楽しみだよねって。それで、一対多の相手と私って、そういうネタ、考える人好きな人いるよねって。

 後、イマジナリ―京太郎については、四季にまた登場してもらおうと思ってるよ。『ドライブマイカー』とかも参照するかも。分からんけど。

 『僕の心のヤバイやつ』の批評なのに、別の作品の批評を始めてしまって、申し訳ない。だけど、批評の道具の鍛錬のため、必要だったんだ。

 見逃してほしいね。

 前から、何度か口にしているgiftとか、倫理とかの問題も早くやりたい。だけど、僕の思考と執筆に限界があるからね。

 では、今回は、これで。アデュー。

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