ACT療法 文脈としての自己
私たちは牢獄に囚われている。
自己という名の牢獄に。そのことに気づいたとき
世界は開けるのだろう。
ACT療法のコアプロセスの一つ、文脈としての自己について書いていこうと思います。
この文脈としての自己、説明をしていくにあたり少し難しさを感じています。「今、この瞬間」の項目でも説明した感情や思考を眺めるということ。その眺める場所のことを文脈としての自己と表現しています。
ある種、心の中の聖域のような存在であります。その場所は物質的には存在はしませんが確かにある場所です。その聖域から僕たちは思考や感情を眺めていたのです。
概念としての自己
文脈としての自己の反対語として概念としての自己というものがあります。これは心理的非柔軟性でもあります。
皆さんは「自分は~という人間だから」なんて思いはありませんか?
例えば、「僕はクールだからこどもっぽいことはしない」みたいに。
自分の信条や思考・イメージ・判断・記憶から「自分は~な人間だ」と作り上げていることがあります。
簡単に言ってしまえば、自分のキャラを作っているなんて言い方になるでしょうか。
概念としての自己とはいわば、自分が他者に示す名刺のようなものでありその名刺を自分で信じている状態のことです。
この概念としての自己がネガティブなものだったらどうでしょうか?例えば、「僕は役立たずだ」というように。このレッテル貼りが自分の人生に有害であることが多いことは明白だと思います。
その他にもこの概念としての自己に捕らわれすぎてしまうと心理的柔軟性を欠き柔軟な発想や対応が取れなくなってしまいます。
例:私はまじめな人間だから狡いことをしてはいけない。
この場合だと、「少しさぼろう」なんてみんなが言っていてそれが許されるときにもいら立ちや反発をしてしまったりすることになります。
その結果、対人関係の不和を呼んでしまうなんてことも。
視点としての自己
それにたいして視点としての自己というものがあります。
視点としての自己とは「今、この瞬間」と接触し、その体験を意識している状態のことです。マインドフルな状態になっていることです。
文脈としての自己とは前述したとおり、「今、この瞬間」を意識できる場所となります。
少しスピリチュアルに感じるかもしれませんが瞑想を続けていくと自然とこの境地に達することが出来ます。
チェスボードのメタファー
チェスボードがあります。
白の駒と黒の駒はお互いに駒を取り合っている状態です。白の駒も黒の駒も戦力が尽きず、ずっと争っています。
白の駒(いい感情)と黒の駒(悪い感情)が絶え間なく争っていることに巻き込まれているのが私たちです。
チェスボード上で巻き込まれないために位置するところはどこでしょうか。全体を見渡せる場所はどこでしょうか。
チェスボードはチェスの駒と密接に関係をしながらもただ駒を置いているだけです。白の駒にも黒の駒にも加担せずに。ただただ、駒の動きを眺めているのです。チェスボードが文脈としての自己の視点ということになります。
まとめ
概念としての自己、視点としての自己、文脈としての自己と三通りの自己のある場所を説明しました。
概念としての自己に囚われすぎると柔軟性を欠いてしまいます。時にそのことで問題が複雑になったり解決不可能になったりします。
文脈としての自己の視点に立ち、自己の思考や感情を自由に動きまわせるスペースを作ることで客観的な視点で自分を見つめ受け入れていくことが出来るようになります。
オープンな反応スタイルを眺める場所という言い方がしっくりくると思います。
人は概念としての自己を否定すると「私ってなに?」となりがちですが我々はここに存在することだけで価値があるのです。「私らしさ」に過度にこだわらず、自分の価値を見つけて柔軟に行動していく。
「しなければならない」自分ではなく「したい」自分になるために。
※外的世界では「しなくては」生活が成り立たないので私的世界でのお話です。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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