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百円札の人

 板垣退助といえば、僕の世代より上の人は百円札をすぐ思い浮かべるだろう。小学校1年生の頃、駄菓子屋にお菓子を買いに行くのに、母親から細かいのがなくて、百円札を渡され、全部使ってしまい、こっぴどく怒られた記憶がある。今でいえば千円位の価値になるのだろうか。
 その板垣退助である。土佐藩の上士の家に生まれたが、坂本龍馬や武市半平太とは、遠い親戚筋になる。漫画の「おーい竜馬」で上士の子として竜馬たちを虐めているシーンがあるが、あきらかな嘘である。大人になっても、中岡慎太郎と誼を通じ、勤皇派であり、幕末末期には中岡を通して薩土密約を交わしている。
 やがて明治維新がおこり、征韓論が勃発する。板垣は征韓派であった。岩倉具視の策略に破れ、西郷とともに野へ下った。
 そこで自由民権運動である。板垣は「民選議院設立建白書」を提出し、国会の開設を訴えた。明治7年のことである。西南戦争が明治10年にあり、板垣は参加せず、あくまで言論による戦いを続けた。
 さて本題です。これまでの話は板垣退助という人を知らない人のために無理矢理詰め込んで説明しました。結局何が書きたかったのかというと以下のことです。
 明治14年、板垣は、岐阜で遊説中に暴漢に襲われる。その時の言葉が有名な「板垣死すとも自由は死せず」なのだが、実際はそんなことはいわないで「痛い」といっただけだと。痛いが土佐弁で「いたいがやきー」イタガキーと聞こえたので上記の名文句が作られたというお話である。
 ところが、ところが、である。実はこれはどこかの学者が受けを狙っていっただけのひとことであり、それが広まって、今や、こぼれ話に載るまでになっているが、嘘だったらしい。僕も信じていた。さすがに刺されて、「板垣死すとも~」なんていえねーだろうと、思っていた。
 遊説中ということもあったのかもしれないが、各報道機関、といっても新聞社だけだが、揃って「板垣死すとも~」といったと書いている。だけでなく、刺した犯人まで、そういったと証言しているのである。
 どこの学者さんかはしらないが、これはわりと最近のことらしい。昭和の終わりか平成くらい。ということはその学者さん、まだご存命であるかもしれない。板垣退助の名誉回復に尽力されているらしい。
 この部分の記事をインターネットでみつけて(wikipedia)どうしても書きたかったのである。
 板垣退助は、晩年政治家を引退後、華族の世襲禁止を問う活動を行った。自らも子を廃嫡し華族の栄典を返上した。大正8年、肺炎のため薨去。享年83(満82歳)
 
 人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそうは思わない。志ある人々が私の墓を前にして、世の矛盾に怒り、それを糾(ただ)さんと、世のために働いてくれるのなら、私の死は終わりではない。— 板垣退助 
                          (by wikipedia)


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