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磯野真穂『他者と生きる』読んだ

こちらの記事で取り上げた文化人類学者の磯野真穂さん、なんとなく気になって近著を読んでみたよ。

タイトルからわかるとおり、疫病のようなリスクといかにつきあうか、つまり他者とのあり方を考察した一冊である。

近年の日本ではゼロリスク志向が蔓延している。本書では狂牛病やHIVにまつわるおぞましい事件も取り上げられているが、別の疫病で現在進行中なので割愛。

リスクには、リアルな実感を伴うものと、なんか怖いっていうリアリティの希薄なリスク感覚がある。

これは経験の遠近感とも関係している。身近な誰かが恐ろしい目にあったとか、自分が痛い思いをしたとかが近い経験。遠くの誰かの災難は遠くの経験。
地理的な遠近感だけではない。例えば、血圧が高いと未来に心血管障害をきたす、というような時間的な遠さも関係している。

基本的にリスクの感覚は未来志向である。しかし過去の経験から想起されるリスク感覚もある。これは、時間は過去から未来へ流れていくものだから当然かもしれない。

過去から未来へと一定間隔で流れる時間が存在するという前提は、統計的人間観と深く関係している。複数の治療法をX年後の生存率などで比較するなど、この前提がなくては成り立たない。

人間をマスとして捉える統計的人間観に対して、個人主義的人間観がある。かけがえのない個人の集積として集団があるという人間観である。
しかし実は個人主義的人間観は、統計的人間観と相性がいい。かけがえのない個人の命を引き伸ばすために、統計的人間観に基づく臨床医学の知見は役立つからである。もちろん、客観的に測定しうる時間の長さという前提も貢献している。

これらの人間観に対して、著者は関係論的人間観を引っ張ってくる。これまた説明するのが難しいのだが、まず集団があって、その中に個人が立ち現れてくるという感覚である。その個人は関係性によっても様々に変わりうる。

個人は情況によって変わりうるなら、時間の長さも一定ではない。35歳で亡くなった人の人生が、80歳まで生きた人のそれよりも長いことだってありうるのだ。

では時間の深さとはなにか。著者は、偶然と必然のいったりきたりする過程が関係しているのではないかという。

私達の生活はほとんど習慣化されていて、自動的に進んでいるかのように感じられる。しかしこうした必然ではなく、偶然性にでくわすこともある。のっぴきならない選択を迫られることもあろうし、本当にaccidentalにいつもと違う情況になることもある。差異と反復である。

こうした必然性と偶然性の紆余曲折こそが人生の深さを決めるのではないかと著者は考えるのである。

そもそも意識とは、必然性のなさ、偶有性にこそある。決まったお金を投入して所定のボタンを押せば決まった飲み物が出てくる自動販売機と、人間は明らかに異なっている。たとえ「おはよう」に対して「おはよう」と半自動的に帰ってくるとしてもだ。

こうした予測できなさこそ他者であり、意識があるってことじゃなかろうか。つまりインタラクションの可能性があるか、完全に自動的であるかだ。

というようなことを考えていると、他者との関わりを断って、心臓が動いている時間をひたすら伸ばそうとするのはいかにも不自然なことに思えてくる。


というわけで時間と意識は来年の個人的なテーマになりそうだなと、先日読んだ本のこともあって、考えるほかないのであった。




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