平井靖史『世界は時間でできている: ベルクソン時間哲学入門』読んだ
アンリ・ベルクソンの記憶や時間についての哲学には以前から関心があったが、いきなり原著を読むわけにもいかんし、どうしたもんかと思っていたら、ちょうど良さそうなのが出版されていた。
客観的な計測された時間と、主観的な時間が異なるのは誰でも知っているだろう。例えば、おとなになると1年が短いというように。
というようなことを、本書を読めばよく理解できるようになるかと思ったが、難しすぎワロタ。
というわけでそのうち再読しなければいけないのだけど、現時点での理解を備忘録として書いておく。
まず大事なのは時間を階層化して理解するということ。時間の階層は複数ある。
人間が認識できるのは最短時間はおよそ1/50秒、つまりリフレッシュレート50hzで、可視光線の振動数よりはだいぶ少ない。人間には認識できないほどの瞬間がたくさん集まって1/50秒が形成される。その1コマは、もっと細かい素材をただ並べたものとは質的に異なっている。これが階層を飛び越えるということである。
ある程度の瞬間が集まると、幅をもった現在として認識される。ここでも階層を飛び越えている。映画の1コマをたくさん並べたものと、映画は全くの別物だ。
幅のある現在にたどりついたところで、ようやく時間を意識する段階なのだが、時間の流れさせているのはなにか、方向性を決めているのはなにかはまだ出て来ない。それがなんなのかは私の読解力不足によりよくわからなかった。
現在の幅がある程度長くなって、かつそれが過去のことになれば記憶になる(そもそも過去なんて存在するのかというややこしい議論についてはよくわからず)。入力と出力が1セットで体験として記憶される。ここに意識が生じるためにはたんなるインプット、アウトプットではだめだ、なんらかの判断がないといけないのだが、そこまでは読み込めなかった。
入力と出力が反復されるにつれて自動的に行われる感じになる。いわば習慣化であるが、ベルクソンは水路づける(canalisation)という言葉を使う。
反復といっても毎回全く同じではないから適宜上書きされるであろう。また入力側の感度などの制約により、出力側も限界がある。つまり入力側の技術革新は出力にも変化をもたらす。
そうしたエピソードが集積されると人格が形成される。一貫した人格、つまり自由で責任を負いうる主体とはなにかという昔からある疑問に抵触するわけだが、どのような答えを出しているかまで読み取れなかった。
想起するとき、同じ速度で再生するわけではないので、複数回のシミュレーションを行える、つまり未来の予見可能性が高まる。
時間の幅というか広がりが形成されることで、空間的な広がりも認識できるようになる。駅から徒歩5分とか、新幹線で1時間とか、そんな感じで空間を認識できる。ここでもテクノロジーは認識に大きな影響を与えている。
というようなところまでは理解できたのだが、より精緻な記述になるところでついていけなくなるという事態が頻発した。今回は最後まで読み切ることを優先した。
いつかどこかで精読しなければいけない。あるいは類書に手を出すか、悩ましいところである。