ミシェル・フーコー『臨床医学の誕生』読んだ
久々のみすず書房シリーズ。
約1年半積んでいたがようやく読んだ。
2回読んだがよくわからないところも多く、とりあえず現時点での理解を書いておこうって感じだ。
18世紀以降の西ヨーロッパで臨床医学の認識論的転換があったという論旨だが、実際のところそんなわかりやすくは書いていないのだ。
従来は病人は家庭で看護されていたが、いつのまにか医療施設で治療されるべきものに変わった。
その過程で、医師の患者をみるまなざしが、観察されたものを共有できるように言語化されていく。
従来の分類学的医学が現代的医学へと変わっていくらしいのだが、現代の医学を当たり前のものになっている私には、以前がどうだったのか想像することも難しい。
言語化されたまなざしとか医学的知識は特権化されていくのだが、それはもちろん利権的なことだけではなく、標準化された医療を提供する必要があったからである。
特にフランス大革命後の戦争によりまともな医者たちが従軍することになり、まともな医師の育成が急務となる。ここで実地医家と大学の医師らの綱引きがあるわけだが、ここの記述が非常にわかりにくい。結果的には医学知識とそれにより与えら得れる資格は大学に囲い込まれることになるのだった。
もう一つ重要なのは死体解剖である。これにより、死と生をつなぐものとしての病の位置が確立される。死が明らかになることによって、生と病の立ち位置がはっきりしたわけである。はっきりしない以前、人々が生死や病をどのように捉えていたか、これまた想像困難だが、、、
また解剖は疾患が局所的にまたは全体的に捉える視線を形成する。例えば自己免疫疾患は全身的な現象であるが、それがどの臓器を障害するか、炎症は漿膜と粘膜のどちらに現れるかといった視線である。
ただしこれも現代の医学教育では当たり前のことであって、以前がどのようであったのか想像できない、、、
重要なのは、患者の訴える症状はあくまで局所的である(医師は、どこが具合悪いですか?と尋ねる)。局所と全体の関係がわかることによって、そのような問いが可能になるのだ。
以上が現時点での私の理解である。以前の医学や医療がどんなものであったのかは想像が及ばないが、本書で描かれたプロセスは今なお進行中であるということがわかった。
翻訳について。訳者は神谷恵美子氏、東大の精神科の先生であった。調べてみると、マルクス・アウレリウスのあれとかも訳してるてはった。昔の東大の先生すごすぎやろ。。。
うーん、いつかラテン語も読めるようになりたいなあ。