『「推し」の科学』を読んで 私の「推し活」とは

「推し」という言葉。私はその言葉があまり好きではありませんでした。正確には、何でもかんでも「推し」と呼んでしまうその暴力性、その対象を「消費物」に貶めるかの如き態度が気に入りませんでした。

具体例。私が高校生の頃、クラスの特定の男子を「推し」などと言って、面白がっている女子がいました。やっぱりぼかすのはやめます。私のことを「推し」などと言って、面白がっている女子がいました。当時の当人としてはそんなに悪い気はしておらず、なんならオイシイなとすら思っていたのですが、同時に微かな違和感があったのも事実でした。何かがおかしい。これは何なんだ。

今思うと、本来対等であるはずのクラスメイトが私のことを「消費」し、さらにそれを悪びれずに表明するという傲慢さを気持ち悪く感じていたのだと思います。対等だと思っていないため、当然恋人関係になるなんてことには発展しないわけで、こちらは道化であることを強制されます。関係性を、勝手に向こう主導で自己完結的に(なのに他者を巻き込んだ形で)規定することの暴力性。それが気に食わなかったのでしょう。

もっと踏み込んで言うと、上のクラスメイトが言うところの「推し」という概念は、真の「推し」概念ですらないという指摘が可能です。上のクラスメイトが言うところの「推し」は、単なる「消費・被消費」の関係性を押し付けるための言葉であり、その関係性はこれから詳しく述べるような「推し」概念のただの前提条件でしかありません。「推し」とただ言っているだけで、行動が伴っていない。まさにこのことが、「推し」概念を他の概念と切り分ける境界を規定します。

「推し」の定義

それでは、「推し」とは何なのか。下の本を参考に、自分なりの定義を述べておきます。

「推し活」とは、本来ただ(ポジティブに)消費するだけの対象との関係性において構成された表象をもとに、今度はこちら側から世界全体に働きかけるその一連の活動のこと。
「推し」とは、「推し活」の定義に登場するその対象のこと。

対象を認知する際の表象の構成と、その表象をもとに対象に働きかける行為。その一連の行為を本書では「プロジェクション」と呼んでいます。認知だけ(例えば単に対象を好きと思っているその部分だけ)では足りなくて、それを元に、対象に限らない世界全体に対して働きかけるという能動性までが「プロジェクション」の定義には必要です。

本書は、「推し活」とはプロジェクションの一種だという捉え方をしています。つまり、何かを推すということには、能動性が不可欠だと主張しています。しかし、それだけでは広い意味でのプロジェクションと「推し活」との区別がつきません。そこで、私なりの定義として「本来ただ消費するだけの対象によって」という文言を付け足しておきました。

上に挙げたクラスメイトの言う「推し」は、この前提条件である「消費」の部分だけを切り出してきているだけで、その本質たる能動性(世界への働きかけの部分)を欠いています。自分の認知は何一つ変えることをせず、ただ独りよがりな関係性を押し付けているだけ。

上の定義から、「推し」という言葉を人間に対して用いるときは、芸能人のように自ら消費されることを選んでいる人間に対して使うべきだという規範が導かれます。それ以外の関係性の人間は「本来消費するだけの対象」ではないので、「推し」にすることなどできないのです。

私の「推し活」

上の定義に従うならば、「推す」という行為は個々人の表象構成と行動のサイクルのことなので、決して「グッズをめちゃくちゃ買う」みたいな行為のみに矮小化されうるものではありません。一応補足すると、「グッズをめちゃくちゃ買う」行為が推し活の一環になっている人自体はもちろん大勢いるでしょう。が、それだけではないということです。もっと幅が圧倒的に広い。ついでに言うと、「私の方が推している」なんて主張はあまりにも意味不明だということもわかります。認知機構なんて、外から定量的に測れる範疇を超えています。量的比較はナンセンス。

「推し」という言葉が漠然と嫌いだった私ですが、そんな私にも胸を張って「推している」と言える人たちがいます。たびたび話題に挙げていますが、日本の女性アイドルグループ「私立恵比寿中学」を一年前から強烈に推しています。

それでは、私にとっての具体的な「推し活」とは何なのでしょうか。通常の応援(ライブに行ってペンラを振る、グッズを買う、配信にコメントする)はもちろん推し活に含めて良いと思います。なぜそのライブ/グッズ/配信に価値を感じるのかと言えば、自分の特殊な認知がそこに投影されているからに他なりません。そして、その応援行為が特殊な認知をさらに作り上げます。

先にも見たように「推し活」というのは幅広い概念なわけです。私立恵比寿中学をきっかけにして世界との関わり方が変わったならば、その変わった部分は広い意味で「推し活」と言って良い。私の場合は他に何があるのか。

それは他でもない「これ」、つまり文章の執筆でしょう。私立恵比寿中学がきっかけで、私は今までしなかったような見方で文章を書くようになりました。

私立恵比寿中学の歌詞に着目すること、メンバーの人物像に迫ること、それらを通じて、私の興味の幅は今大幅に広がっています。記事を読んでいただかないとピンとは来ないと思いますが、

  • 時間の認知

  • ミニマリズムと時間モデル

  • 謝罪と自己認識と時間モデル

  • 演技と身体性

といったそこそこ抽象的なテーマに関して、腰を据えて思考するようになりました。それらは、大げさに言えば人間の認知と行為の根本に直結する問題群でもあります。私立恵比寿中学のことをずっとぐるぐる考えていたら、いつの間にかこんなことまで考えるようになってしまったわけです。周りから見たらどう考えても奇妙ですが、こういったテーマについて考えて文章に書き起こす一連の流れは、私にとっては「推し活」なのです。推しと同じ色のネイルをつけることが推し活であるように、私にとっては、推しに触発されて思考をぐるぐる回す(表現行為も含む)ことが推し活なのです。

『唯脳論』的なことを言うならば

我々が普段五感で感じている「現実」は、物理世界をそのまま映したものではあり得ません。必ず、我々の身体の認知機構を通って加工されたものとして「現実」は立ち現れます。どう足掻いても、そこに認知が絡むのです。

その認知機構は、物理的な処理にとどまりません。無意識に行われる言語的な意味づけを含んだ形で、我々は現実を意識しています。言語的に構成された表象も、無意識のうちに認知に絡んでいるのです。意識的にそれを外した形で世界を認識することは部分的には可能かもしれませんが、普段の生活では必ず「意味」的なものが認知の中に混入しています。

この本で述べられる「プロジェクション」は、その「意味」的な部分の認知にフォーカスを当てていると言えます。上で述べたように世界の認識に必ず「意味」的なものが混入するならば、「推し活」を通じた「意味づけ/価値の重みづけ」の大きな変容は、比喩的な意味ではなく本当に「世界を丸ごと変えてしまう」のです。

だから、それは他者が見ると意味不明なものになったりします。推し活がときに宗教的だと揶揄されるのはそのためです。

たしかに閉鎖的な推し活は、本当に危険な一部の宗教団体のように、過激な方向へ走ってしまう危険性を孕んでいると思います。ただここまで見てきたように、プロジェクションの一環として捉えられる推し活は、「世界全体」へ働きかけるものです。その射程は広い。閉鎖的というよりかはむしろ開放的です。推し活が閉鎖的(例えば「お金を貢ぐファンだけしか認めない」みたいな排他的な姿勢とか)なものだけではないことを示すという意味でも、プロジェクションという概念を推し活という行為に「プロジェクション」することには、意義がありそうです。

量的な競争ではない、質的に開かれた推し活へ。

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