『他人の顔』 安部公房
はじめに
『砂の女』の次の長編で、「失踪三部作」の2作目となる。
三島由紀夫は本作について、『砂の女』より重要作品と位置付けている。
同時期に、大江健三郎さんは『個人的体験』を発表してもいる。
三島はふたつの作品を批評しながら、技術的には大江さんの『個人的体験』を評価するも、芸術的側面からは本作に軍配が上がると評価していたりするようだ。
解説の大江健三郎さんも書いてらっしゃるように、本書を読み終えて、全体として、実存小説というか存在論小説のような趣きが僕の印象に残った。
本書を僕なりにとらえてみる。
主人公の男は事故により顔面にひどい火傷を負う。そのため、男は目と口の部分だけ隙間を見せるかのように包帯で顔面をいつもぐるぐる巻きにしていた。
周りからの《疎外》感を払拭したく、包帯という《覆面》ではなく、本物の人間のような《仮面》を作ってもらい付けるようになる。《顔》という、見えない壁が行く先々に立ちはだかる男。妻の気持ちを取り戻すために《他人の仮面》を付け続ける。やがて、男の目的そのものが《仮面》に侵食され変化していき、そのことを葛藤することで男の《自我》と《仮面》が分離してゆくのを見て取れる。
本書は男の滑稽さが笑いを誘いつつ、男と妻を通して「顔」という人間存在に迫る作品だと感じた。
いくつかの点を念頭に読んでみた。
・仮面、顔の下にあるもの
・笑い
・仮面や覆面の役割と感受性との関係
仮面、顔の下にあるもの
仮面、顔を取っ払ってしまうと何が残るのか?
仮面や覆面をつけたら見せかけの自由を手にするのだろうか、それとも、はじめは見せかけでもやがてその自由こそが本物の自由となり得るのだろうか───覆面や仮面の下の顔のない剥き出しの実存はサルトルの『嘔吐』ではネバネバとしたもの。マロニエではない僕ら人間の実存とはドス黒くも儚く馬鹿げていてそれでいて美しい性愛や生そのものかもしれない。
仮面の下の顔が自我と感受性を失っていないならば、顔を取ることは、顔の中に棲みついた怒りや喜びを奪い去ることと同義かもしれない。
サルトルは短い論文『顔』の中で以下のように述べてもいる。
笑い
仮面や覆面の下で男は冷笑したり、男が自我と仮面との間で葛藤したり、それこそ最終場面は滑稽そのものでしかなく、カフカ的不条理の中安部公房はやはりカフカとは違い、朗らかさまでをどこか感じさせるような笑いを提示し続ける。
「笑い」は世界の深淵を垣間見せる契機でもある。
仮面や覆面の役割と感受性との関係
《素顔の表情》にこそ《感受性》が宿る気がする。そしてその《感受性》は「価値」というカテゴリのラベルには収まらない無形財産にもなり得る───その一方で生きづらさを引きずるリスクもあるかもしれないが。
社会全体が巨大な仮面で全員仮面をいくつも持ち歩き、その仮面は他人を通してしかどんな仮面か規定されないとするならば、このインターネット空間は覆面しかいないかもしれない。───個々の付けている仮面覆面の総体≒社会やネットの空間あるいは場。
そこでの個は、お互い仮面あるいは覆面を付けた相手を通して虚構とも言えない《虚》を造り上げていくような感覚でもある。
しかしながら実体のない《虚》は無味乾燥の乾いた砂で城を作るようなものであり、《虚》≒《砂の城》であろう。
社会風潮や「トレンド」といった風に吹かれれば呆気なく姿を消す。
それら伽藍堂の媒体により気が付かない間にすり替わってしまう思考や感情──その考えや感情は実存とややもすればまったく無関係な押し付けられた勘違いかもしれない。
こうした全体的な仮面や覆面を脱ぎ捨てられない現代において、感受性の希薄さに繋がるかもしれない。
感受性こそが唯一権威主義的な何かに対抗できるものに僕は考える。それゆえ、少しでも五感を働かせて社会に自分を開いておく姿勢を忘れないようにしていたい。───そのように願うのは本当の《私》なのだろうか。
いつもどこかで僕は《私》に冷笑されている。
おわりに
新潮文庫版の解説は、大江健三郎さん。とても的確な解説となっている。
まさにそうであり、先日まで少し追いかけたアニー・エルノーもそうであったように思う。
今、活躍している日本作家の中でもこうした自己を社会に開いた作品を書くひとが増えたら楽しいだろう。