エクリチュールの受難と情熱についてのとりとめのないこと
この3日間くらい、情熱について考えている。
情熱は沈黙あるいは禁止の中でこそ花開く。
例えば『シンプルな情熱』はわかりやすいが不倫。
さまざまなことを主人公は禁止する。
情熱、どこかで最近この単語を見たな、と記憶を辿りながら本棚を開いた。
デリダの『エクリチュールと差異』である。
※僕はデリダに関しては、まだ代表作しか読んでいない。
パロール(言葉)とエクリチュール(書記)の差異
=おのれの外に出て行く《神》の過ち、《神》の怒りであり、失われた直接性であり楽園の外での労働
と、続き、脱バタイユしながら、
たとえそれが物ひとつ記号ひとつかえることがなかったとしても、壊乱と転覆の無制約な力を持つ。
かかる反復こそエクリチュール
と、積み重ねたもののまとまりをデリダは提示する。
どれほど一字一句同じエクリチュール(書き言葉)であっても、エクリチュールとして再現される前のパロール(話し言葉)と、エクリチュールとの差分は微妙に異なる。
言い換えてみる。
異なるエクリチュールであっても、本質的に意味するものが同じ場合もあれば、同じエクリチュールであっても、本質的意味が異なる場合もある。いずれにせよ、パロールとの差分がそれぞれある。
この差分が無制約な力を持つ。
エクリチュールの(受難=情熱)はこの無制約な力に対して受け入れるしかない。
僕のシンプルの情熱はこの感覚に近しい。
少し前に、エクリチュールの羽ばたきについて、走り書きをしたのだが、要するに、羽ばたくためには、熱量が必要。
そして、カルノーサイクル的な永劫回帰的な熱機関システムはエクリチュールの反復においても、構築不可能ということだ。
パロールからエクリチュールに変化してしまうと不可逆、ということだ。
カルノーサイクルについては高校生くらいの熱力学で多分習う。
どうでもいいこと、と言えば全くどうでもいいことだ。
それよりも、僕は次の点について語りたい。
アニー・エルノーとフランス思想・文学の流れを年表のようにまとめている方がいた。
これを眺めていると、1980年、サルトル死後、言い換えるならば、実存哲学がなきが如しに葬り去られて以降、徐々に僕好みの文学の空洞化が進んでいるようにも見えなくもない。
フーコーが死に、ジュネが死に、デュラスが、ブランショが死んで今僕の好きなフランス文学者は誰が生き残っているだろう?
クンデラ、モディアノ、ウエルベック……。
話は更に逸れるが、エルノーのエッセイを読んでみた。
サルトルやボーヴォワールらに色濃く影響されている。
また、文章の質の高さがやはり良いなと思う。
僕はフェミニズムを否定はしないが、全面的に出す作品が極めて苦手な為、正直言って、エルノーのエッセイも苦手意識を感じた。
しかし、エルノーの言葉選びと訴えたいことを表現する力は凄まじいと思う。
例えば、こう、彼女は言う。
文章中、彼女と私たち、という言い回しが僕はフェミニズム全面的であまり好きにやはりなれないのだが、そのほかの言い回し方が洒落ていて、知的、かつ、エクリチュールの熱量が高い。
僕はフェミニズムという観点からエルノーに僕の中で何かしらの違和感を持つのか、あるいは、他の観点からなのか……。
その違和感の理由を探りたい。
そうさせるのは、カズオ・イシグロ以来だ。
僕はカズオ・イシグロのクララとお日様が苦手だった。何か違和感があったのだ。
しかしそれを探しているうちに著作物を気がついたら全部読んでいた。さらに、気付いたら好きな作家になっていた。
エルノーを果たして僕は好きになるだろうか?
エクリチュールの(受難=情熱)、広大無辺な運命。
なかなか楽しい冒険になる気がする。
僕の気に入ったエルノーの言い回しのひとつ。
エクリチュールは何者にも属さない自由なのだ。
ところで、前述の熱量について少し追記しておきたい。
パロールとエクリチュールの差分としての熱量(≒書くことの不可能性へ抗う)について僕の言いたいことに興味があるひとがいるのか分からないけれども──僕は言いたいことをきちんと書けていないが──補足すると、これは《無》すなわち笑いに通じる。
笑いとは、バタイユ的に言うと、世界の深淵である。
つまり、無意味とは世界の深淵に通じている、ということだ。
無意味さ、戯れが明確に現れたとき=真面目さが裏目に出たとき、あるいは、より大きな真面目さに直面するときの差分によって、ひとは笑いを引き起こす。
サルトルの『壁』で最後、主人公が哄笑する。
これもある意味では、あらゆるそれまでの状況が一変したことで引き起こされた笑いであり、無意味さによって深淵を見ている。
これに興味がある場合はバタイユ著『ニーチェについて』を読むとわかりやすい。
つまり、シンプル《の》情熱、書くことの不可能性に抗う無意味さは時として世界の深淵をチラ見させることもある、ということだ。
ここでは自律的笑いかどうかは置いておく。
いずれ考察するかもしれないが。
アニー・エルノーがそうしたことを言及、あるいは、追及したかどうかは僕にはまだわからない。
さて、書くことの不可能性を沈黙とするならば、それに抗うエクリチュールに政治的、あるいは覇権、権威主義的な意義をわざわざあとから付け足すことはエクリチュールに足枷し、羽ばたくことを禁止することにもなる。
羽ばたいたエクリチュールは自由のために闘うだろうか。