ハードボイルド書店員日記④
今朝も遅刻してきた。
彼が最後に時間通りに出社した時、私はまだここで働いていなかった。誰も何も言わないのが不思議だ。言っても効果がないから諦めたのかもしれない。前の職場に似たタイプのバイトがいた。オセロの名人だった。休憩のタイミングが重なった際に「どうですか?」と誘われて何度かやった。一度も勝てなかった。しばしばラグビーのニュージーランド代表が降臨した。
彼女は己のスケジュール管理にも恵まれた才能を活かした。月曜と水曜が休みで火曜が出社という週は火曜を自発的に休むようになった。クビになった後で出勤日の合計が64だったと聞き、この世界には神がいると信じた。
開店から一時間、私と彼がレジを務めた。
真ん中に入るのはつねに私だ。彼は迅速に隅を奪う。やはり似ている。隅にいるくせに電話が鳴っても取らない。黙々とカバーを折る。飽きたら案山子の役をもらったカメレオン俳優の真似をする。
どの店にも注意を要する常連客がいる。
ここでは黒塗りの杖を突いてサングラスをかけた老人だ。いつも週刊誌か保守系の論壇誌を買う。レシートを最終ページの真ん中に透明なセロテープで丁寧に貼れと要求する。少しでも曲がったり歪んだりすると怒鳴り出す。お気に入りの栞が切れていると店長を呼びつける。彼の欲しい本が出版社にないときに「申し訳ございません。ご注文いただけない商品です」と言ってはいけない。「横着するな。電話をして確かめろ」の声と共に杖の先端が悲鳴を上げる。版元品切れの本は端末にそのように表示されるのだが、誰が何度説明しても信じない。
このダンディは私に父方の祖父を思い出させる。自力でご飯すら炊けないのに近所のラーメン屋を嘲笑し、打球を1メートルも前へ飛ばせないのに巨人以外の選手を下手くそと罵る。亡くなる少し前に訪問販売の営業マンにだまされ、屋根の葺き替えに175万払ったと聞いた。たぶん嘘だろう。
その老人がレジに近づいて来た。しかも彼のいるレジに。
「こんにちは」「レシート、貼りますね」「ここで大丈夫ですか?」にこやかに対応している。老人の表情も穏やかだ。「ああ、そんなに丁寧にやらなくていいよ」「ありがとね」こんなことは入れ歯が外れても言わない人だ。今週末また台風が来るかもしれない。「巨人、ずっと調子いいですね」「でも日本シリーズで勝たないと意味ないんだよ」「今年は行けるんじゃないですか?」「そうだといいねえ」結局クレームめいたことを何ひとつ言わず、「正論」をゲッツしたダンディはご機嫌で帰っていった。
私はカウンターの隅でまた案山子の役作りに戻った彼を見た。オセロの女性と同じ結果にならない理由を理解できた。祖父に纏わるあの話は案外真実かもしれない。