「こだわり」の次の段階
CHAGE&ASKAの曲を聴き続けています。
関連本も何冊か読みました。特に↓は学生時代に衝動買いし、いまでも時々開いています。
忘れ難いのはロンドンでのレコーディング風景。ASKAさんが「ゼロの向こうのGOOD LUCK」を何度も歌い、でもテープから流れる始めのフレーズを聴いた途端にNOのサインを出す。理由は「400のピッチなら400にピッタリ合わせることができるんだけど、それが399までいけるのに、あと1が届かない」というもの。
喜劇俳優にして映画監督のチャールズ・チャップリンにも、わずか十数秒のシーンを一日中撮り、どれも気に入らなかったみたいなエピソードがあったと記憶しています。
彼らの作品に長年触れてきたことで、私も創作する際に「こだわり」を重んじるようになりました。
しかし禅を学ぶ中で「こだわり」とは「囚われ」だと気づきました。桜井章一さんの本から「一点を凝視するのではなく、蜘蛛の巣を張るように全体を見る」姿勢を学んだことも大きかったです。
一方でこうも考えました。一定期間「こだわり」を大事にしたからこそ、そこを離れた時に新たな景色が見えるのではないかと。
SANADA選手の話です。
「頭から落とすだけがプロレスじゃない」と大技に頼らぬレスリングを貫いてきた頑固者。しかし少し前から「どうしたらいいかわからない」ほどのスランプに悩んでいました。
そして出した答えが場外でのパイルドライバーとフィニッシュの新技。いずれも頭から突き刺すムーブです。
変節したとは思いません。経験でわかります。彼は「こだわり」の次の段階へ進んだのです。
「こだわり」を手放す。だからといって「こだわらない」のではなく「こだわらない」姿勢にもこだわらない。こだわるけどこだわらない。イコール囚われない。おわかりいただけるでしょうか?
光と励みを感じました。SANADA選手ありがとう。