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【小説】躾
「躾」
男と云う男は、皆なお前の肥料になるのだ。
浮気癖のある妻を折檻死させたとして小口末吉が新聞に載ったのは大正六年三月のことである。死亡した内妻である矢作ヨネの死体は惨たらしいの一言で、背中には幾つもの痣や傷があり、左右の臀部にはそれぞれ二ヶ所ずつ大きな裂傷があって、それらは奇妙なことに対称になるよう並んでいた。さらに左手薬指の第一関節から先が切り落とされていて、極めつけは背中に細い線のような火傷の痕が走り、「小口末吉ノ妻」と文字が刻まれていた。新聞に載った末吉の人相は、いかにも極悪人であるという面構えをしていて、一方その横には一目見ただけで誰もが別嬪だと口を揃えて言う顔があり、それがヨネであった。二十歳を少し過ぎたばかりのヨネは、その若さと美貌を用いて大工を生業としている夫が仕事で居ない日中、何人もの男を家に連れ込んでは行為に及んでいたのだという。嫉妬深い末吉が怒りに任せてヨネを折檻し、その果てに死亡させたというのがこの事件に対しての一般的な見方であったが、警察による取り調べにおいて末吉は次のようなことを話した。「ぜんぶヨネが望んだことです」
小口末吉は妻子のある身であったが、銘酒屋の娘である矢作ヨネに「活動写真に行かないか」と誘われたその夜、ヨネから言い寄る形で連れ込み宿にて二度結ばれることとなり、それから幾度かの逢瀬を重ねたのち、ついに妻子を捨てて駆け落ちし、浅草の借家で同棲することとなった。自分より十も若く、捨ててきた前妻とは比べ物にならないほどの美人と一緒になり、さらに毎夜のごとく身体を求めてくるヨネに意気揚々としていたのだったが、同棲を始めて一月ほど経った頃、仕事から帰って来た折にヨネが見知らぬ男を連れ込んで行為に及んでいるところに出くわしてしまった。男は突如現れた末吉の姿に驚嘆の声を上げて慌てて起き上がり、上に跨っているヨネを脇へ突き飛ばして脱ぎ捨てていた野良着を急いでかき集めながらそのままの格好で逃げ出そうとした。末吉が素早く駆け寄って腕を掴んで捕らえると、男は振り払おうと必死に腕を振ったが、力だけは人一倍である末吉の前に為す術なく、それに極悪人の面構えに捕らえられたとあって、まさに観念した様子で大人しくなった。男は、これは騙された、美人局に遭ったと思っていたが、しかしながら末吉はその人相とは裏腹に非常に弱気な性格であり、咄嗟に捕まえてはみたものの、何を言えば良いのか分からず、かといって夫の威厳を見せつける為に一発かましてやる気概も無く、しばし沈黙が続いたが、ふとあることを思いつき懐から財布を取り出すと「これでうちのとは一切関わらんでくれ」と言って金を差し出した。これには男も呆気に取られた顔をして、何か裏があるのではないかと疑っていたが、裸のまま二人のやり取りを見世物にでも立ち会っているかのように見ていたヨネが「それ貰ってとっとと帰り」と言ったので、男は卑屈な表情で金を受け取るとすぐさま抱えている野良着の隙間にしまいこみ、それから遠慮がちに股引だけを履いて末吉を一瞥するとそのまま玄関から出て行った。戸の閉まる音がすると、末吉の中で張り詰めていたものが消え、仕事とは違う嫌な疲労感に襲われた。男を一喝した先ほどの威勢はどこへ行ったのか、ヨネは末吉の足元へ蹲ると「ごめんよごめんよ」と言って詫び続けた。泣きじゃくりながら詫びるヨネを見てしまってはさすがの末吉も「もうしないと誓ってくれるなら、今日のことは許す」と言うしかなかったのだが、「それではあたしの気が済まないから、罰としてぶってくれ」とヨネは頼んだ。今までに女子供はおろか、誰一人として手を上げたことのない末吉は「そんなことはできん、お前が誓ってくれるだけでいい」と宥めるのだったが、「後生だからぶってくれ」とヨネは懇願し続け、二人のあいだで押し問答が繰り返されたが、結局は渋々承知した末吉が頼みを聞くこととなった。「さあ、思う存分やっとくれ」と両手を広げて立っているヨネに対峙したものの、やはりそう簡単に妻を打つなんてことが出来るはずもなく、ただ茫然と立っている末吉にじれったくなったヨネは「頬でも張っておくれよ」と促した。末吉は左手をヨネの右頬の横に持って行くと、僅かに手首を反らせ、戸惑いながらも弱々しく張った。だがそれは頬を張ると言う行為には微塵も達しておらず、「これじゃあ罰になりません。もっと強くやっとくれ」とヨネに注意され、捨て鉢になった末吉が左手を大きく振り上げようとしたところで、「末さんは右利きでしょう。だから右手でしておくれ」とヨネが言い、不慣れな行為に利き手を失念していた末吉は改めて右手を振り上げて頬に向かって下ろしたが、当たる間際に恐ろしくなって腕を引っ込めたので、それは空振りに終わった。ヨネは末吉の右手を取って「きちんと四本の指を揃えて、ここが当たるようにしておくれ」と丁寧に教えた。再び右手を上げて頬を正確に捉えるよう狙いを定め、一二の三と拍子を取ってから振り下ろされた手は、まさに左頬のど真ん中に当たり、激しい音が鳴った。末吉は咄嗟に心配になって「すまん、大丈夫か」と頬を撫でようとしたが、ヨネはその手を跳ね除けて「まだ足りんから、もっと張っとくれ」と静かに言った。その声はいつものヨネとは違う凄味を帯びていて、それに怯んだ末吉は恐る恐るではあるが、しかし手加減をしたらこちらが許されないであろうと覚悟を決め、渾身の力で頬を張った。大の男がした力任せの平手打ちにヨネは立っていられず、突き飛ばされでもしたかのような勢いで倒れ込んだ。すかさず末吉はヨネに近づいて抱きかかえ、自分の右手を襲うじんわりとした痛みを感じながら、なんと恐ろしいことをしてしまったのだと詫びようとしたが、ヨネが顔を上げてこちらを嬉しそうに見ているのが分かると、これは夫婦円満の為にも致し方ないことだったのだと思い直し、詫びの言葉を飲み込んだ。「末さん、あたしが悪さしたら、またこうやってぶっておくれ」そう言いながらヨネは末吉に小指を絡ませて一方的に指切りをした。そしてこの約束事を、ヨネは「躾」と呼んだ。
この「躾」を再び行わなければならなくなったのは、それから半月もしない頃で、しかも今回は夫婦と顔見知りである隣家の若者を連れ込んで行為に及んでいるところを取り押さえたのだが、若者は末吉がその面に似合わず弱気であることを知っていたので全く悪びれる様子もなく、若者の方から「縁を切るから金をよこせ」と要求した。末吉が言われるがまま財布を取り出して金を渡そうとしたところを若者はそれを奪い取って中身を確認すると、厭味ったらしく舌を鳴らし、財布を逆さにしてあるだけの金を自分の懐へ入れてから末吉の方へ投げ捨てた。若者は堂々とした振舞いで末吉の横を通りすがると丁寧に「お邪魔しました」と言って去った。末吉が財布を拾って中身を確認するとそこには文字通り一銭も入っておらず、末吉は若者に対して何も出来なかった自分を悔しく思った。三十を過ぎたと言うのに大工仕事でもいまだに下っ端仕事しか任せられず、仲間からは愚鈍だといびられる。そして家に帰れば妻は隣家の若者と間男している。どうして俺はこうも情けない男なのだろうかと泣いていると、ヨネが末吉を抱きしめながら「ぜんぶあたしが悪いんだ。あたしのせいでこんなことになっちまった。末さん、約束覚えてるかい。あたしを躾けておくれ」と言った。確かにこのあいだヨネの頬を張ったあと、そんな約束を結んだ覚えがあったが、それはヨネが勝手に定めたことで末吉はそもそも真に受けておらず、今は自分がどうしようもない人間だと落胆を極めていたのでそれどころではなかった。だがヨネがしつこく「躾けておくれ」と言うので「そんなものは知らない」と言うと、「あの時約束したじゃないか」と言い立て、さらには「躾けてくれなきゃ別れてやる」と突飛なことまで言い出すので、これには末吉も参ってしまい、ヨネに捨てられてしまってはますます自分の立場はないではないかと考えて「そうだった、確かに約束した」と了解してしまった。前と同じようにまた頬を張ってやれば事は収まると高を括っていた末吉だったが、「平手じゃなくて拳骨でぶってくれ」とヨネは言い、さすがに拳骨で顔を打つのは憚られるので断ると、「じゃあ背中をぶってくれ」と言うのだった。ヨネが向こうを向くと、華奢で弱々しい女の背中が現れて、これを打つなんてまさに鬼そのものではないかと思ったが、末吉には結んでしまった約束事を果たすことしか道はなく、右手の拳骨を金槌でも振り下ろすかのようにして浮き出る背骨の上に力一杯喰らわせた。ヨネは痛みに呻くことはなかったが、息の詰まる声を上げて前方にふらついた。そして両手を壁に付いて身体を支えながら「その調子だよ、もっとしておくれ」と末吉を急き立て、末吉もこの沙汰が早く過ぎ去るように願いながら繰り返し腕を振り下ろした。ふとした時ヨネがこちらを振り向こうとしているのに気がつき、だが下ろす腕を止めることは叶わず、拳がヨネの顔面に当たってしまい、不意の出来事にヨネは痛みに叫んで顔を覆って蹲った。末吉も真っ青な顔をしてそばにしゃがみ込み、「すまん、そんなつもりはなかった」と詫びながら打たれたところがどれほどものか伺おうとした。幸い眼球が潰れるようなことはなかったが、ヨネの右眼は赤くなり、涙が止まらなくなっていた。「ほんとうに馬鹿なことをした。躾なんてよそう」と末吉も涙を浮かべながら言うのだったが、「末さんを泣かせるなんてあたしはなんて悪い女だ。さあ、もっと躾けておくれ」と反対にヨネが末吉を慰めるかのごとく恐ろしいほど穏やかに言うのだった。この声に背筋が凍る戦慄を覚えた末吉は、もはやこの狂気の沙汰から逃れられる手立てはないと悟り、ヨネが満足したと言うまで殴り続けるのだった。
隣家の若者が武勇伝でも語るように喋ったのだろう、ヨネの間男が近所で知られるようになり、しかも末吉にいたっては金を巻き上げられたとあって、皆が末吉のことを口々に愚図だの阿呆だのと裏で呼び捨て、そのくせヨネの右眼が青タンを作って腫れ上がっているのは若者に手を上げられない気弱な末吉が、女であるヨネを腹いせに殴ったからだと噂された。その噂は末吉の耳に否が応でも入ることとなり、こうなってしまっては末吉も世間に顔向け出来るはずがなく、末吉はヨネと逃げるようにして浅草から下谷に引っ越すことにした。これでしがらみも断ち切り、心機一転新たな生活が送れると思っていた末吉であったが、ヨネの間男がやむことはなく、そのたびに「あたしの悪い癖が治るように」と躾をせがんだ。ある時ヨネは末吉の大工道具の中から二尺ある竹尺を持って来て、「これでぶってくれ」と言った。腐っても大工の端くれである末吉は「道具を粗末に扱うなんてできん」と珍しくヨネを𠮟責したが、実のところ末吉自身も棟梁に竹尺で折檻された嫌な過去があり、それをヨネに対して行うことは出来ればしたくないというのが本心であったが、そんなことお構いなしのヨネは「できなきゃ別れる」と脅し、さらに「素手じゃ末さんも痛いでしょう」と要領を得ない配慮を見せ、反駁させることなく半ば無理矢理に納得させた。背中を殴打させていた時と同じようにヨネは壁に両手を付く姿勢になり、末吉は竹尺を頭上まで振りかざして一気に下ろすと、しなった先端が空を切る爽快な音を立て、次の瞬間には高らかな肉の弾ける音へと変わった。赤々とした真っ直ぐな筋が背中に浮かび上がり、それは僅かなあいだで幾本にも増えていった。重ねて打擲されたところは微かにではあるが皮膚が裂け始めていて、そこから血が滲み出していた。背中の打擲に満足したヨネは、「こっちにもしとくれ」と誘うように臀部を振りながら言って、打擲しやすくする為に突き出した。末吉は突き出された貧相な臀部に竹尺の先で円を描いて狙いを定めると、そこに向かって打擲してそのまま振り抜いた。竹尺の先が臀部の肉を抉るように引っ搔き、背中よりも一層際立った裂傷が出来上がった。ヨネが臀部を手でさすってその傷がどこにあるのか探り、左の臀部の最も肉付きが良いところだと分かると、「こっちにもしとくれ」と対になる右の臀部の箇所を示した。末吉はもう一度先端でなぞって狙いを定め振り下ろしたが、狙い通りには行かず、またも左の臀部の、さっきの傷のやや上の辺りに新たな裂傷が出来た。臀部を確認し、思うような傷が出来ていないことに苛立ったヨネが「反対の手で持って、こっちから打つんだよ」と末吉を怒鳴りつけ、左の臀部に付いた二ヶ所の傷を、右にも作らせようとするのだった。末吉は利き手ではない左手で竹尺を持ってヨネの右側に立ち、左の臀部と対になる箇所を狙って打擲するのだが、左手では上手く狙えず臀部のあちこちを赤く腫らし、しかも力も利き手ほど込めることが出来ないので、一撃で裂傷させることは不可能だった。それでもヨネは執念深く左右で同じ傷を作らせるよう末吉を責め立て、多少の差異はあれども、似たような裂傷が右の臀部にも二ヶ所出来上がった。ヨネは両手で臀部をさすり、傷の位置を確かめると「もっとよく見たい」と言って姿見を持ってこさせ、背中から臀部にかけて出来た幾つもの傷を見て、顔を綻ばせるのだった。
傷に沁みるからとヨネは次第に風呂に入ることをやめ、躾によって出来た傷も適切な手当がなされずそのまま放置されてしまった為に、黴菌が入って化膿し始めているものも中にはあって、汗や垢に膿の臭いまで混じって異様な体臭を放つようになっていた。末吉は風呂の代わりに濡らした手拭いで身体を清めてやり、町医者から軟膏を貰って来て膿を抑えるよう努めたのだが、そうするとヨネは身綺麗になったと言って嬉々として外へ出て行き、やはりと言うべきかどこかで男を捕まえては家に連れ込むのだった。そうなれば末吉は約束通り折檻しなければならず、そうして出来た傷をまた手当しなければならなかった。この堂々巡りから抜け出すにはヨネの間男をやめさせるしかなく、しかしどうしたら良いものかと思案しているところになんとヨネからその提案がなされた。どこかから拾ってきた麻縄を見せて、「日中はこれであたしを縛っといてくれ」と言い出した。確かにそれは妙案であり、そうすれば他所へ出掛けて男を捕まえてくることも出来ないわけで、なぜこんな簡単なことが思いつかなかったのだろうと末吉は思った。しかしながら末吉にも少なからずヨネを労わる心はあって、麻縄で縛ってしまっては、飯を食うことも、それに厠にすら行けないではないかと考えたが、間男されて折檻するよりは幾分もマシであると考え直し、ヨネの言う通りに従った。まずは着物の上からヨネを後ろ手にして縛り、それから両足首もまとめて括って、それらを繋ぎ合わせるように背後で縛り上げると、ヨネは海老反りの格好になって畳の上に転がった。そこに居るのは確かにヨネではあるものの、末吉には一見してそうは思えず、人間とは違う種類の生き物のように思えてならなかった。ヨネが身体をくねらせて仰向けになったのを見た時、四肢を欠損して見えるその姿はまさに芋虫そのものであり、女の顔を持った芋虫が早く仕事にでも行けとでも言うように顎をしゃくると、末吉はその場から逃げるようにして家を飛び出した。ヨネの奇態には強烈な印象があり、仕事をしているあいだも脳裡から離れることはなく、末吉は幾度も過ちを犯してしまった。そのたびに棟梁や仲間にどやされては一切ヨネのことを考えまいとするのだったが、竹尺を見るとどうしても折檻を思い出してしまい、すると縛り上げられて畳を転がっているヨネの悍ましい姿が浮かんできて暗澹となるのだった。夕刻になって家に帰った末吉だったが、ヨネの奇態を見るのがやはり恐ろしく、なかなか部屋の襖を開ける決心がつかなかった。耳を近づけると中から微かにヨネの呻き声が聞こえてきて、どんな様子か少しだけ覗いて見ようと僅かに襖を開けると、そこからヨネの体臭に加え糞尿の臭いまで漂って来て、末吉は吐き気を催した。やはり厠へ行くことが出来ず、ヨネはその場で粗相したのだった。意を決して襖を思い切り開け広げると、その音に気づいたヨネが末吉の方を振り向いたが、その顔に生気は無く、虚ろな眼は果たして末吉を見ているのかどうかすら分からなかった。末吉が急いで麻縄を解いてやると、結び目が緩んだその瞬間にヨネは自力で麻縄を振りほどき、末吉に飛びかかると唇を激しく吸った。末吉はそのまま押し倒されてしまい、上に伸し掛かったヨネが末吉の股引を強引に引きずり下ろし、現れた弱々しい男根にむしゃぶりついた。ヨネの身体から発せられる異臭に耐え切れず末吉は幾度もえずきを繰り返しながら、どうにかしてヨネから離れようと抵抗したのだが、男根を咥えられている状態で下手に動いたら噛み千切られるのではないかと不安になり、仕方なくされるがままの体勢で居た。不甲斐ないことにこんな時でも弱々しかった男根はヨネによって活力を与えられて立派になり、ヨネは着物の裾を捲り上げそれを自らの中へ招き入れようとしたところで、末吉は「臭くてたまらんから股座を洗って来い」と言ったのだが、ヨネは汚れた股の中へ末吉を沈めて行った。溜まりに溜まっていた欲を一遍に快楽へと転換させていくように、幾度も幾度も股間を打ち付けるヨネの前では自分というものがこの世から消えていくように末吉には感じられ、しかしその一方で男根への快感は無情にも募って行くばかりで、そこだけが生身の肉体としてこの世にあって、ヨネと繋がっているのだと思うと虚しく感じられた。このまま果ててしまってはそれこそ自分は消えて無くなると思っていたのも束の間、末吉は獣のような唸り声を上げて精を放出してしまうのだった。
果てた末吉が仰向けのまま天井を見つめて自分はこの世に居るのだけれど、ここが彼岸だと言われても信じてしまうような、ぼんやりとした曖昧な心地になっていると、妙なくすぐったさが男根に訪れ、再びそこだけが生き返ったかのような感覚になった。軽く上体を起こしてそちらを伺うと、活力を失った男根をまたしても口に咥えてしゃぶっているヨネが居た。末吉の精とヨネの体液に塗れた男根は汚い光沢を放っているが、そんなことは気にもせずただ一心にしゃぶり続けるヨネに「もう立たない」と言ってもやめようとはせず、「あたしが満足してない」と言い返した。しかしどう弄り回しても活力が戻ってくることはなく、咥えていた男根を粗末に吐き捨てると、「あたしをぶって満足させろ」と言い出した。「間男もしてないのにそんなことはできん、約束と違う」と言うと、「じゃあ今からしてくるから待ってろ」と言って糞尿臭い薄汚れた格好で出て行こうとするので、末吉は慌てて取り押さえた。末吉は組み敷かれてもどうにかして家から出ようと暴れ回るこの気の狂った女を見て、果たしてこの女は一体誰なのだろうかと思った。もちろん矢作ヨネその人であることには違いないのだが、浅草の借家で同棲を始めてからまだ半年も経っていないのに、あの頃のヨネの面影を見出すことが何一つ出来なかった。身体に痣と傷を抱えて膿を滲ませては、風呂にも入らずただ汚穢を身に纏っていく糞尿垂れのこの女に対し、末吉は「あんたヨネか」と問いかけた。ヨネはぴたりと暴れるのをやめて末吉の顔をゆっくりと見上げると、「末さんの妻のヨネに決まってるじゃないか」と誇らしげに言うのだが、途端に血相を変え「あんた、あたしが分からなくなったのかい」とまさに鬼のような形相で聞き返してくるので、それに気圧された末吉が返す言葉も無くただ口ごもっていると、その一瞬のあいだに神仏の声を聴いたかのような神々しい眼をしてヨネは言うのだった。「あたしが末さんの妻だって分かるように、背中に名前を書いとくれよ」ヨネが言ったことの意味を末吉が理解するのには少なからず時間が掛かり、しばし間を置いて「墨で名前を書けば良いんだな」と思いついたままに言うと、「それじゃすぐ消えちまうから消えないようにしてくれ」と言ってヨネは部屋中を見回し、隅に置かれていた暖を取る為に炭を熾してある火鉢を見つけて、「あれに刺さってる火箸を炙って、それで書いとくれ」と言った。ヨネの眼はどす黒い何かに取り憑かれていて、末吉はその眼に刺し貫かれると有無を言わさずやらざるを得ないのだと観念した。だが末吉も腹に一物あって、「これでもう躾は最後にしてくれ」と頼み、それを聞いたヨネは黙って頷き「じゃあ早くやっとくれ」とせがんだ。末吉が「なんて書けばいいのか」と聞くので、ヨネは大工道具の中から矢立と半紙を持ってこさせ、そこに「小口末吉の妻」と書いて渡した。末吉は火鉢に近寄って赤々と熾っている炭の中に火箸の先を入れ、そうしている横でヨネは着物を肩口からはだけさせ、痣と傷で埋め尽くされた背中を露わにした。しばらくして炙っていた火箸を炭から離し、ヨネの項から真っ直ぐ下へ降りてきた辺りにその先を押し当てた。じりじりと煙を出しながら皮膚の焼ける音がして、末吉はその嫌な煙を吸わないように息を止め、右手の震えを左手で抑えながら火箸を慎重に動かした。そのあいだヨネは一言も漏らさずに袖の上から左腕を噛んで苦痛を耐え忍んでいた。しかし一度に書けるのはせいぜい一画と少しというごく僅かなものでしかなく、火箸が冷めると炭の中へ突っ込んで熱しては、また背中に一画ずつ書き足していった。末吉が自分の名前を刻み終えると、「平仮名は丸くて書きにくいから片仮名でいいか」と聞き、それにはヨネも了承したので、手早く「ノ」と刻むと「妻も漢字じゃ難しいから、これも片仮名にしてくれ」と言った。ヨネは「それだけはだめだ」と言い、「よく半紙を見ながら書いとくれ」と頼んだ。末吉は火箸の先を炙っているあいだ半紙に書かれた「妻」という漢字をよく確かめながら指先で背中をなぞって大まかな目安を立て、それから火箸でその位置に一画刻み込むと、また先端を炙っているあいだ次の一画を確かめては指先で背中をなぞった。そうしてゆっくりと時間を掛けて刻み込まれた「妻」という文字は、先に刻まれた末吉の名前よりも端正で美しく、焼け爛れた線がやけに輝いて見えるのだった。ヨネは姿見の前に立って背中を見ながら「これでどこへ行ってもあたしは末さんの妻だねえ」と言った。
背中に刻まれた「小口末吉ノ妻」という文字をヨネはたびたびうっとりした顔で眺め、そのお陰もあってか間男することは無くなったが、色欲狂いのごとく昼夜問わず末吉の身体を求めるようになり、それを断ると癇癪を起して暴れ回り、刃物を持ち出して「死んでやる」と叫んだ。反対に末吉はまだ老け込む歳でもないのに突然情欲が湧かなくなり、このところ立つこと自体珍しくなっていた。そのさまを不審に思ったヨネが「末さん、まさか他所で女作ってないかい」と問い詰めた。そんな謂れ無い疑いを掛けられてしまってはヨネに何をされるか分からないと思った末吉は「馬鹿なことを言うな、そんなことするはずがない」と必死で誤解を解くのだが、「ならなぜ立たないんだ、他でやってきてるからだろ」とヨネは畳み掛けるのだった。なぜそうなってしまったのか自分でも分からない末吉はただ頭を下げて詫び続けるしかなく、しかしそれを素直に聞き入れるつもりもないヨネはついに激昂し「あたしを捨ててその女と一緒になるつもりか」と叫んだ。もうこうなってしまってはヨネを鎮めることが出来ない末吉は、殺されても仕方ないと覚悟し、頭を畳に擦り付けじっと怒りが収まるのを待つしかなかった。するとヨネが末吉の大工道具を漁っている音が聞こえ、何やら持ち出して来た。末吉が頭を上げて見ると、ヨネの手には鑿が握られていた。それで心臓を一突きするつもりかと末吉は考えたが、ヨネは末吉の目の前に左手を広げて置き、「末さんが浮気できんようにするわ」と言って右手で握った鑿の刃先を左手の薬指に宛がうと、刃先を細かく動かしながら体重を掛けて押込み、薬指を一つ目の関節から切り落とそうとした。刃先は骨と骨のあいだに僅かに食い込む程度で、それ以上はヨネの力では進まなかった。「そんな真似しなくても浮気なんかせん。頼むからもうやめてくれ」と哀願する末吉に、「近頃じゃ結婚した夫婦は左手の薬指に指輪をするのが流行りだと聞いた。あたしらに指輪はないから、代わりにあたしの指を指輪だと思って持っといてくれよ」とヨネは痛みにも動じず、平然と言ってのけた。その後どうあがいてもヨネ一人では薬指を切ることが出来ないので、末吉はおもむろに立ち上がって大工道具の中から金槌を持って来ると「俺がやる」と言い、ヨネの手に自分の左手を重ねるようにしてしっかりと鑿を握ると、振りかざした金槌で思い切り鑿をぶっ叩いた。刃先は指を貫通して畳に深く突き刺さり、薬指の第一関節から先が軽々と宙を舞った。そのさまを眼で追っていた末吉は、それがあまりにも綺麗な放物線を描いて飛んで行ったので、指先が畳の上に落ちた瞬間に思わず笑い出してしまった。末吉がなぜ笑い出したのかヨネには分からず、啞然とした顔で末吉を眺めていた。持っていた金槌を放り出し、腹を抱えながら立ち上がって指が飛んで行った先へ歩いて行き、落ちている指先を摘まみ上げると、「いやあ綺麗に飛んでったな」とヨネの方を振り返って言った。「何がそんなにおかしいんだい」とヨネは聞いたが、末吉はただの肉片と化した指先を様々な角度から吟味するように見ては肩を揺らせていた。ヨネは先の無くなった薬指を眺め、止め処なく溢れ出る血が畳に広がっていくのを見ながら、「末さん、それ後生大事に持っといてくれな」と言って動かなくなった。その声は相変わらず指が飛んで行くさまを思い出しては笑っている末吉には届かず、笑い声が静まった頃にはヨネはもう冷たくなっていた。
末吉は近所の交番へ向かい、「妻が死んだ」と告げた。家へやって来た警察がその惨状を見て驚き、「あんたがやったのか」と問いただしたが、末吉はろくに返事もせず死んだヨネを見つめていた。末吉は殺人容疑で逮捕され、新聞に事の顛末が書かれると、稀代の凶悪事件として瞬く間に世間の注目を集めた。しばらく沈黙を続けていた末吉であったが、ある時の取り調べで「ぜんぶヨネが望んだことです」と供述した。最初は疑っていた警察だったが、検死の結果、ヨネに付けられた傷は一方的に末吉が付けたにしては整い過ぎている箇所があり、それはヨネの協力を得なければ成立しないものではないか、ということが分かった。とは言うものの末吉がヨネの死に加担したことに変わりはなく、しかしながら情状酌量の余地はあるものとして事件は進められていたが、そんな最中、末吉は脳溢血で突然この世を去った。今際の際で末吉はある言葉を思い出していた。それは「小口末吉ノ妻」と背中に刻み込まれた文字を見たヨネが末吉に言った言葉だった。「これでどこへ行ってもあたしは末さんの妻だねえ」
(了)
参考資料
「殺人博物館~小口末吉」(二〇〇九年六月十一日 岸田裁月)
※この作品はニ○ニ三年十一月十一日「文学フリマ東京37」にて頒布された『彩宴-iroutage- VOL.3』(発行・編集:彩ふ読書会)に掲載されたものです。
おまけ
『彩宴-iroutage- VOL.3』は「望」が全体のテーマとしてあった。元々別の題材で書き進めていたが上手く行かず、どうしようかと悩んでいたとき、いつかは小説として書いてみたいと思っていた「下谷サドマゾ事件」のことを思い出し、これなら「欲望」や「願望」として書けるだろうと考え、改めて題材として選んだ。そして作品イメージを膨らませられるような曲を探していると、昔から好きだったポルノグラフィティの「渦」が合うのではと思い至り、執筆期間中に繰り返し聞いていた。