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HKB(6) チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」(前編)


高野虎市、チャップリンの秘書となる

高野虎市、シアトルへ行く

今から約100年前のこと。
移民としてアメリカへ渡った高野虎市(こうのとらいち)が、喜劇王、チャーリー・チャップリンの秘書になれたのは、いったい何故だったのでしょうか?
 
高野虎市(戸籍上は「虎一」)は、明治18年(1885)、広島県安芸郡八木村(現広島市安佐南区八木)の裕福な家庭に生まれました。

小学生の頃の高野虎市(出典:広島県立文書館 資料より)

八木尋常小学校に入学しますが、学校嫌いの「ガキ大将」であったそうです。上の写真は小学校時代の高野ですが、腰に手を添えるポーズがすでに堂々とした風格を備えているようにも見えます。
 
10才の時に沼田高等小学校へ進級しますが、15歳になって単身アメリカに移住することになります。

沼田高等小学生の頃の高野虎市(出典:広島県立文書館 資料より)

明治33年(1900)に交付された旅券では、渡航先はアメリカのワシントン州シアトル、渡航目的は「農業」となっています。
 
形の上では、彼も当時広島県で多かった「米国への移民」のひとりでした。しかし、家が裕福であったと伝わっているので、生計を立てる為の移民ではなく、何か特別な事情があったのでしょう。
 
本稿と関係はないのですが、「シアトル」と言えば、あのブルース・リーのことがふと思い出されます。
香港の俳優の息子として裕福に育ったブルース・リーは、日々喧嘩に明け暮れる不良だったそうです。彼の将来を心配した父親は、たったの100ドルだけを18歳のブルース・リーに持たせて、シアトルに送り出したのでした。

「燃えよドラゴン」のブルース・リー

さて、高野虎市は、シアトルに住んでいた従兄を頼って新生活を始めます。
雑貨店の店員や赤帽(荷物の配達)などをして苦労しますが、やがて自動車工学を学んで運転免許も取得します。そのころのアメリカは、ヘンリー・フォードが1904年に大衆車「T型フォード」を発売した後であり、すでに自動車社会になっていました。
 
しばらく通訳の仕事などもしていましたが、明治44年(1911)、26歳の時にいったん帰国します。2年後、父親の兵右衛門が死去したため、家督を相続し、同郷の安崎イサミと結婚します。彼女との馴れ初めがどんなものであったかは、資料が見つからず、わかりませんでした。

高野虎市、妻の警鐘に耳を傾ける

大正3年(1914)、29歳の時、父親から相続した土地を売り払い、妻イサミと共に渡米し、ロサンゼルスへ移住します。
 
そこで、「飛行士になる」という夢を見つけ、飛行学校へ入学しますが、飛行機の搭乗中に事故に遭ってしまいます。 

飛行学校での高野虎市(出典:広島県立文書館 資料より)

幸い命に別状はありませんでしたが、妻のイサミから飛行機に乗ることを猛反対され、それを素直に聞き入れた彼は、飛行機への夢を断念します。
 
このとき、妻の言葉に耳を貸さなかったら、その後の高野虎市の人生は変わっていたでしょう。妻のお陰で、彼の人生はこのあと急展開します。
 
大正5年(1916)、高野虎市は、チャーリー・チャップリンが「運転手」を募集していることを知り、応募します。
 
チャップリンは、採用面接の時に「君は、車の運転ができるの?」とだけ聞き、高野は「はい」と答えただけでした。すると、チャップリンは、「僕はできないんだ。かっこいいなあ!」と応じたそうです。
 
当時、アメリカの西海岸では、アジア系移民の排斥運動が巻き起こっていたころでした。このエピソードからしても、チャップリンがいかに「フェア」な人だったかがわかります。
 
幸運なことに、高野は採用されました。チャップリンもロンドンの芸人の子に生まれ、アメリカにやって来た移民でした。初対面で、高野と何か通じ合うものがあったのでしょうか。
 
運転手の仕事は週給30ドル(円に換算すると、今の価値で週給75,000円程度)でした。
 
そのころ、チャップリンはミューチュアル社と最高金額で契約しており、「消防士」「質屋」「移民」「冒険」などの映画の主演・監督をしていました。彼の人気はうなぎ登りでした。

高野虎市、チャップリンの信頼を得る

1918年、チャップリンは独立して、「チャップリン撮影所」を設立します。ここで、映画「犬の生活」、「担え銃」などを次々と製作します。
 
高野虎市はチャップリンに仕えながら、持ち前の勤勉さと機転が利く性格をフルに発揮して、次第にチャップリンの信頼を得て行きます。
 
撮影に関して「完璧主義」だったチャップリンが、冬なのに「カタツムリが撮影に必要だ!」と言い出すと、高野は、さっそく土を掘り返して冬眠中のカタツムリを見つけて来ます。

また、撮影に使っていた犬が急死してしまうと、それとそっくりの犬をすぐ見つけて来て、しかもドーラン(白粉)を塗って、元の犬と身体の模様を同じにする、という気の利かせようでした。
 
このような努力の甲斐があって、1919年には、高野はチャップリンの邸宅に一緒に住み、身の回りの世話をすることになります。
そしてついに、1921年から正式にチャップリンの「秘書」に昇格しました。
高野はチャップリンの小切手の「サイン」が代理で出来る権限までも与えられるという、全幅の信頼を得たのでした。
 
ちなみに、チャップリンは、高野虎市の息子スペンサーの名付け親にもなっています。「スペンサー」は、チャップリンのミドルネームでした。
 
チャップリンの邸宅で必要となった使用人は、高野が知人を連れて来て紹介したので、邸宅の中は日本人だらけになったという話もあります。

多い時で17人も使用人がいたそうですが、ほとんどが広島県出身者だったという話もあります。おそらく、邸宅の中では「広島弁」が飛び交っていたのではないでしょうか。

チャップリンから与えられた屋敷の前で。妻イサミ、長男スペンサーと(出典:広島県立文書館 資料より)

高野虎市の支えもあり、チャップリンは仕事に没頭して行きました。やがて、「キッド」「黄金狂時代」などの名作を発表し、チャップリンの名声は世界中に届いて行くのでした。

チャップリンの「キッド」

5・15事件での「チャップリン暗殺計画」に警鐘を鳴らす

こうして、二人三脚の歩みを始めたチャップリン(当時42歳)と高野虎市(当時46歳)は、映画「街の灯」が公開されたあと、昭和7年(1932)に世界一周の旅に出ることになります。

ヨーロッパ各地を訪問した後、アフリカのアルジェに立ち寄り、最終目的地は日本でした。

イタリアのナポリを出航し、シンガポールに向かう諏訪丸の甲板で。中央チャップリンの右は、兄のシドニー・チャップリン。後列左が高野虎市(出典:広島県立文書館 資料より)

高野虎市は、チャップリンより一足先に日本に帰国し、日本での歓迎行事の準備や、故郷の広島と宮島へチャップリンを連れてゆく下準備などを行います。
 
神戸に到着したチャップリンは、各地で大歓迎を受けます。新聞も連日、チャップリンの動向を報道するなど、日本中が大変な騒ぎになっていました。
 高野の元には、商売の為にチャップリンに「つて」を求める人々が殺到し、手紙も山ほど送られていました。

そんな中、高野はとんでもない情報を手に入れます。
 日本の軍部の一部の青年将校たちが、チャップリンの暗殺を企てている、というのです。高野は悩みました。東京での歓迎行事を全てキャンセルすべきか、あるいは、予定どおりに歓迎行事に参加するべきなのか……。
 
一度決めたことは絶対に変えない、というチャップリンの性格を知り抜いていた高野は、このまま東京へ行くけれども、何としても彼の命は守る、と腹をくくります。
 
東京に着いてから、高野は一計を案じました。
宿泊先の帝国ホテルへ向かう車中で、急遽、行先を皇居へと変更させたのです。そして、車を降り皇居に向かって遥拝して欲しい、とチャップリンに頼みました。

“Why?” チャップリンは怪訝な顔で高野に尋ねます。
 高野は何も言わず、眼で訴えました。チャップリンは何事かを察して、高野の言う通りにしたそうです。おそらく、チャップリンと高野とは「以心伝心」でわかり合える関係が出来ていたのでしょう。
 
それは、「チャップリンは天皇を尊敬している」というパフォーマンスを新聞記者たちの前に見せることで、軍部の青年将校たちに「チャップリンは親日家だ」とアピールする、という高野の作戦でした。
 
そして翌日の5月15日。
この日は犬養毅首相の招待で、首相官邸で歓迎行事が行われる予定でした。
朝からあまりにも落ち着かない態度を高野が見せるので、怪しんだチャップリンが高野を問い詰めます。
高野から話しを聞きだしたチャップリンは、首相官邸での歓迎会を急遽キャンセルしました。
 
その夜、犬養毅は「話せばわかる!」という言葉を残し、青年将校の銃弾に斃れます。チャップリンの歓迎会があるから、犬養首相は必ず官邸にいるはず、と青年将校たちは予測して、首相官邸を急襲したのでした。

犬養毅総理大臣(出典:Wikipediaより)

こうして、チャップリンは「5・15事件」に巻き込まれるのを、間一髪で逃れることがでました。
 
この事件のせいもあって、チャップリンの広島訪問は立ち消えになりましたが、彼らは無事にアメリカへ帰国します。

***

なお、表紙の写真は、1927年ころの、チャップリンと高野虎市とが並んで写っているポートレートです。

チャップリンの秘書だった高野虎市の「警鐘」前編 終わり。
後編へ続きます……


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