【備忘録】勝手に復活❗️中大ナイトハイク
はじめに
昨年12月頭にかつて中央大学において学生主催で行われていた「中大ナイトハイク」という企画を勝手に復活させた。
企画内容としては、昨年新しく出来た中央大学茗荷谷キャンパスと多摩キャンパスとの間の40km近くを歩くという大変シンプルなものである。
今更ではあるが、中大ナイトハイクを復活させた目的や実際の様子について記録として残したい。
ちなみに、中大ナイトハイクの動画は企画に参加してくれた中大生YouTuberのコヤノルさんがYouTubeにアップロードしてくださっているので、当日の詳細な雰囲気については動画を見た方がわかりやすいかもしれない。
中大ナイトハイクの歴史
そもそも、中大ナイトハイクとは何なのか、どのような歴史を辿ってきたのだろうか。
大変ありがたいことに、企画当時は公開されていなかった「いま、よみがえる名物行事『ナイトハイク』」という資料が中央大学から公開されていたので、これと主に90年代の参加者の方々が記録したブログを基に情報をまとめていきたい。
大学資料から見る中大ナイトハイク
前掲資料によれば、中大ナイトハイクは1967年から1991年までの期間に基本的に毎年行われていたようだ。(大学紛争の影響により1969年から71年の間は中止。)
中大ナイトハイクは、白門祭の一つの催し物としてスタートした。当時は駿河台キャンパスから50kmの環状のコースを歩いて再び駿河台キャンパスの正門に戻ってくるというルートだったようだ。
学生運動の激化によって、駿河台キャンパスが学生によって占拠されると、授業は多摩校地に建てられたプレハブ小屋で行われるようになった。
この影響もあったからか、72年に再開された際には、駿河台キャンパス正門をスタートとして、多摩校地を終点とするルートに変更されている。
その後、80年に駿河台キャンパスが閉鎖されると、スタート地点は後楽園キャンパスに変更になった。
以降も、少しずつ形を変えながら中大ナイトハイクは中大の「伝統」として定着していった。
しかし、参加人数の増加もあったからか、91年のナイトハイクにおいて、参加者と車との接触事故の発生、地域住民から参加学生の違法駐車や飲酒・騒音などに対する苦情が寄せられたことで、92年のナイトハイクは実施が見送りになった。
翌93年に有志の50人によって、平和を祈念するためのナイトハイクが行われ、これにより、ナイトハイクは整然とした行事となり、社会的意義をも持ったが、結果としてこの年が最後となった。
94年以降には、代替としてナイトハイクに比べると短めの距離を歩くデイハイクが行われるようになった(これがいわゆる中大ハイク…?)が、これがいつまで続いていたのかはわからない。
90年代の参加者ブログから見る中大ナイトハイク
どの年に行われた中大ナイトハイクでも学生たちは50km近くを歩いていたようだ。
しかし、全ての学生が真面目に歩いていたわけではない。
当時のブログには中大ナイトハイクの実態について、以下のようにある。
少なくとも90年代のナイトハイクにおいては、多くの学生は後楽園から新宿辺りまで歩くと、リタイアして飲み始めていたようだ。
後楽園から新宿まで1時間30分くらい歩く必要があるが、普段歩き慣れていなかったり、そこまでモチベーションが高くない学生であれば、脱落は当然だろう。
また、いつの時期からかはわからないが、中大ナイトハイクでは、参加者がしっかり完歩したか確認するために、いくつかのチェックポイントが設けられていたようだ。
例えば89年のナイトハイクでは、後楽園キャンパスを出発して、新宿、仙川、府中、聖蹟桜ヶ丘の4つのチェックポイントを経由して、多摩キャンパスに到着するというルートになっている。
チェックポイントを全制覇した上で、ゴールすると完歩記念のストラップが貰えたようだ。(欲しい!)
さらに、中大ナイトハイクはただ「歩く」というだけの地味な企画ではあるが、かなり盛り上がっていたようだ。
出発式の際は、学長の挨拶や応援団のパフォーマンスもあり、その盛り上がりようが伺える。
東京マラソンのように仮装して参加する人や酒を飲んで出来上がった状態で参加する人もいたようで、その「カオスさ」が窺い知れる。
個人的に、中大ナイトハイクの良さはこの「カオスさ」にあったのではないかと思う。
中大ナイトハイクの一応の目的は、中央大学多摩キャンパスまで歩いていくことであるが、途中で飲みに行ってもいいし、帰ってもいい。一方で、真面目に記録を競う者もいた。その緩さがあったからこそ20年以上続く伝統になったのだろう。
93年ナイトハイクでは、そのカオスさが失われてしまい、全員が同じ目的を持った真面目な取り組みとなってしまったため、盛り下がっていってしまったのだろう。
復活のきっかけ、目的
中大ナイトハイクの存在を知ったのは、就活中に心の休養を図るために自宅から3時間くらいかけて茗荷谷キャンパスまで歩いていったときであった。
茗荷谷キャンパスに行ったのはそのときが初めてだった。茗荷谷キャンパスのエントランスには中央大学の歴史に関する展示があり、その中の一つの展示に目を奪われた。それが中大ナイトハイクに関する以下の資料だった。
当時は就活で忙しかったため、中大ナイトハイクを復活させてやろうとは思わなかったが、こんなにも面白いイベントがあったんだと感心した。
そこから数ヶ月経ったある日、Twitter上で中央大学だめライフ愛好会(現神奈川だめライフ)というアカウントが目に留まった。
だめライフ愛好会は、「だめがだめでいられる場所」をコンセプトとして、学内でさまざまなイベントを開催していた。
その活動の一つとして、彼らが目論んでいたのは、「ゲリラ祭の復活」である。
ゲリラ祭とは、中央大学多摩キャンパス4号館(サークル棟)において、90年代から2000年代まで行われていた大学を管理体制から解放すること、祭に参加する人間の自己の解放を目的として、夜通し大騒ぎをするイベントのことである。(ゲリラ祭について詳しくはこちら)
このイベントも中大ナイトハイクと同じく、近隣住民のクレームと、それを受けた大学からの圧力によって中止となってしまった過去がある。
ゲリラ祭の復活については、私は賛成であった。なぜなら、コロナ禍以降弱まった学生同士のつながりを強めるためには、このような学生全体と大学とをを巻き込んだイベントを行うことが必要だと感じていたからである。学生自治が弱まれば、学生は大学側に意見を通しづらくなってしまう。そのために、コロナ禍以前の学生同士のつながりを取り戻す必要があった。
しかし、ゲリラ祭に対するSNS上での中大生の反応は微妙であった。さらには、連盟会議からもゲリラ祭に参加しないようにお達しが出ていた。(以下は実際の文面。)
私はこの一連の流れを見て、少なくともゲリラ祭に関してはだめライフの活動の仕方は現代の学生のノリに合っていないと思った。
学生間のつながりを強化するためには、もう少し思想色を排した活動をする必要があると感じた私は中大ナイトハイクを復活させることにしたのである。
企画概要
中大ナイトハイクの実施に際して、Twitterにおいて以下のように告知を行った。
開催当時とはルートを改め、2023年に開校した茗荷谷キャンパスから多摩キャンパスまでを歩くルートを採用した。一方で、当時と同じく、新宿、仙川、府中、聖蹟桜ヶ丘を通るようにルートを設定した。
また、以下が企画詳細である。
主催者本人が、電車がある時間帯から歩き始めると帰りたくなってしまう可能性があったため、電車がなくなる時間帯から歩き始めることにした。
また、当時の「カオスさ」を維持するために何でもありのルールにした。
ナイトハイク当日の様子
0時20分 スタート
中大ナイトハイクは予定通り2023年12月4日(月)0時からスタートした。
当日はとても寒く、過酷なナイトハイクになることが予想されたが、集合地点には中大生YouTuberのコヤノルさんと高校時代の友達の計3人が集まった。
また、多摩キャンパスから茗荷谷キャンパスへ逆走してナイトハイクを行う人も1人いた。
計4人の参加者が集まり、ナイトハイクはスタートした。
1時50分 新宿到着
会話をしつつ、1時間30分ほど歩くと、新宿に到着した。茗荷谷〜新宿まではほとんどの時間、閑静な住宅街を歩いていたため、歌舞伎町のホストクラブの看板の光が眩しく感じられた。
また、普段私はトー横を通るたびに写真を撮って、「#今日のトー横」というハッシュタグと共にTwitterに投稿している。
そのため、今回も普段通りにトー横に寄って写真を撮影した。ちなみに、撮り溜めた写真は以下で見れる。
歌舞伎町を抜けると、我々は甲州街道沿いに歩き、第二チェックポイントである京王線・仙川駅を目指す。
大通り沿いの風景はあまり好きではない。景色に変化がないからである。さらに、彩りも灰色で明るい気持ちになれる感じではない。
できるだけ頭の電源をオフにしながら歩いた。そのうち、会話も少なくなっていく。
5時24分 仙川で朝食
新宿駅から3時間30分ほど歩いて、ようやく仙川駅に到着した。スタートから第一CPと、第一CPから第二CPとの距離が違いすぎて、心が折れかけたが、何とか歩くことができた。
ナイトハイク開始からろくに休憩を取っていなかったため、我々はすき家 仙川店で朝食休憩を取ることにした。
こういうときに早朝から営業している飲食店はありがたい。マイノリティに配慮した素晴らしい企業であると思う。
私は、おろしポン酢牛丼をセレクトした。コヤノルさんはキャラに違わず、三種のチーズ盛り牛丼を食べていた。高校の友達はネギたま牛丼みたいなメニューを食べていた気がする。
座席に座っていると、一生退店出来なさそうな気がしたが、ここで、嬉しい連絡が入った。なんとナイトハイクのルートを逆走していた参加者の方と合流することができたのである。彼と激励の言葉を交わし合いながら、仙川駅を後にすることになった。
6時22分 まさかの脱落…
すき家を出て、10分くらい歩いたのち、まさかの事態が起こった。
高校の友達のリタイア宣言である。
前々から足が痛いとは言っていたので、仕方がないことだろう。
ともかく、参加してくれてありがとう!
2人になった我々は再び多摩キャンパスに向けて歩を進めた。
(この辺りからコヤノルさんの言動が怪しくなってくる。本人も歩いてはいるが喋っていた記憶がないと言っていた。)
8時04分 希望の「多摩」
この辺りからさまざまな看板に「多摩」の文字が現れるようになる。結構どうでもいいことかもしれないが、この二文字の出現によって、希望を持つことができた。
また、小中学生の登校時間になり、歩いていると多くの子供達とすれ違う。学校に向かう子供たちと、その道を逆走する我々、そのコントラストの中で何をしているんだろう…という気持ちが強まってくる。
この看板から少し歩くと、多摩川沿いに到達した。この景色を最初に見た時は素晴らしい景色だ!と思ったが、この川沿いを2時間歩く必要があることを知ると、その感情も次第に消えていった。
川沿いを歩いているだけではあるものの、彩りは豊かであるため、甲州街道沿いを歩いているときよりはマシであった。しかし、いかんせん景色に変化がない。
ポツポツと会話をしながら着実に歩を進めていく。
10時01分 あと少し
聖蹟桜ヶ丘駅に到着した。ここまで来れば多摩キャンパスまであともう少しである。
油断して、ベンチで10分くらい休憩したら、足がめちゃくちゃ痛くなってしまった。
これによって、歩行速度が大きく低下する。
11時10分 ゴール
11時間の奮闘の末、中央大学多摩キャンパスに到着した。
多摩キャンパスに着いたときに思ったことは、「やっと終わった…」ということである。
私は歩くことが好きであるが、これまでに最長で2時間くらいの 距離しか歩いたことがなかった。いきなりその5倍の11時間を歩くというのはやはり辛いことであったし、しばらくやらないと思う。
一方で、93年以降中断していた「中大ナイトハイク」を当時のやり方を出来るだけ踏襲しながら、現代に蘇らせることができたのは大変意義のあったことだと思う。
中大ナイトハイクのダメージは大きかった。当日は当然ながら、1週間以上は足の痛い状態が続いた。
ただ、ナイトハイク後のスーパー銭湯は最高だった。
それだけ。
またナイトハイクをやろうとしている人へ
私のナイトハイク企画は、あまりに突発的に始めてしまったため、参加者の募集や大学側との協議をちゃんとやらないままにナイトハイク当日を迎えてしまいました。
もし、またやろうという人がいるなら、中大ナイトハイクを学生全体と大学を巻き込んだ形で実施して欲しいと思います。
その方が、学生間のつながりを強化することにも繋がるし、もし大学公認のイベントとして行うならば、その分大規模なイベントとして行うことができ、より広い交流を行うことができるでしょう。(あとかつて存在していた完歩記念のメダルも作って欲しいです!)
まあ、個人的には学生間のつながりを強める目的で中大ナイトハイクを行うのであれば、サークル棟でスマブラ大会でもしていた方が有効だと思います。
頑張ってください。何年後かはわからないけど。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?