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書くことを通せば、見知らぬ人にも想いは届く

仕事でライティングをしている自分にとって、noteは癒しだ。「書きたいものを、書きたい時に書ける」し、「読んでくれる人」までいる。素晴らしい場所だ。
そんなふうに、勝手に書いて楽しんでいるだけなのに、たまに誰かの心にヒットすることまである。
スキやコメントをいただき、何が自分の心に響いたのかをわざわざ伝えてくれる。もうありがたくて、感謝しかない。読んでもらえるだけで十分なのに。忙しい日々の中で、私の書き散らしたものに時間と労力を割いてくれて、本当にありがたいと思う。

少し前のことになるが、Facebookのメッセンジャーを使って、知らない方から長いメッセージをいただいた。
(noteのプロフィールに自分のサイトをリンクしているし、フルネームで検索すれば、公式サイト、Facebook、ライター名鑑などが出てくるので、連絡をとることはできる)

その方は、たまたま昔住んでいた「熱海」のことを検索していて、私の記事を見つけて読み、そこから遡ってどんどん記事を読んだ、とのこと。4時間も!
そして、このエピソードがよかった、これが共感できた、これは自分のためになったと、細かく感想を書いてくださっていた。
こうして私へフィードバックすることで、私が少しでも元気になればいいと思った、ということも添えられていた。

そうやって、たまたま見つけた私の記事をたくさん読んでくれて、わざわざフィードバックしてくれたことに感動した。
彼の狙い通り、私はそのメッセージによって、かなり元気づけられた。

先日も、別の知らない方からメッセンジャーでメッセージが届いていた。ちょっと埋もれていて、そのメッセージに気づくのに1ヶ月以上かかって申し訳なかったのだが、以前、noteにある日本酒について書いた記事を読んだ方からだった。

この記事の中でラグジュアリー日本酒を飲み、その美味しさに感動したことを結構な熱を持って私は書いた。
メッセージをくれたのは、なんと、この日本酒を企画販売している会社の社長さんだった。

この度はnoteにて極幻の素敵な感想を書いてくださりありがとうございました。
私がブランドを立ち上げた4年前、まさに飲んでくださる方にこのような体験をしてほしいと願って作ったお酒なので、noteを拝読して本当に嬉しく思いました。とても励みになりました、ありがとうございました。

メッセージより

書いてよかったなぁと思った。
もちろん、こんな感想をいただけるなんて夢にも思っていなかったし、社長さんにnoteを読まれることも想定していなかった。
メッセージには、「素晴らしい文章に惹き込まれ、スタッフも喜んでおりました」ともあった。

自分が日々の生活で感じた何気ないことが、「書く」ことを通せば、見知らぬ人にまで届き、喜びや励ましになることがあるのだと実感した。

私は20代後半から、四半世紀にわたってネット上で日記やブログを公開していた。
前にも別の記事で書いたことがあるが、自作のホームページを持っている人なんてほぼいない、Windows95の時代のことだ。Twitterどころか、ブログもまだなかった。

あの時代に自分の日記を公開し続けるなんて、今思えば狂気の沙汰。まあ、変人だ。
でも、「書きたいものを、書きたい時に、書ける場所」があることがうれしくて仕方なかったのだ。すでにライターの仕事もしていたが、仕事ではない文章を書いて、誰かに読んでもらえるなんて、夢のようだと思っていた。そんな場(ネット)ができたのに、書かずにはいられなかった。

あの頃も、よくメールをもらった。

「かおりさんの日記、プリントアウトして持っています。電車の中でも何度も読み返しました」

「たまたまかおりさんの日記にたどり着いて読み始めたら止まらなくなって、遡って全部読みました。徹夜しました!」

あの頃、そんなことをメールしてくれた人もいたのだ。今でもそのことを思い出すと、じんわりとして泣きそうになる。
いつも「こんな私が生きていていいのですか?」と、誰かに問いかけながら生きてきた。神様へなのか、世の中へなのか。
答えが見つからない日々の中で、いただいたメールはその「答え」のようだった。
「生きていていいんですよ」と。
だから、書き続けた。

今はこのnoteが私の居場所。
病気の自分に対しては、たくさんの「えいえいおー!」をもらった。(えいえいおー!応援隊が結成されていた)
「この記事が好き」「この記事に感動した」と、コメントをいただいたことも多々ある。
「かおりさんの文章を読めて幸せです」「かおりさんの文章が好きです」と言われた時は、涙が出た。そんなふうに思ってくれるあなたに会えて、私も幸せです、と感謝した。

noteには「サポート」というシステムがあって、最近は「チップ」という名前に変わってしまい、なんだか変な感じだなと思っているが、このサポートも実はたくさんいただいている。
noteを始めて3年半、挙げた記事は400たらず。この間、サポートの合計金額を調べてみたら、14,980円もあった。
有料記事は1本も書いたことがないが、無料記事に対して、読んだ方が自分の意思でお金を送ってくれたのだ。
夫に話すと「それって、すごいことやねんで。無料やのに記事を読んだだけでお金を払いたいと思ってくれてるねんで。そのすごさ、わかってる?」と言う。
夫と同じ熱量で理解しているのかはわからないけど、いただくたびにありがたいと心から思う。
路上ライブのミュージシャンへの投げ銭みたいなものなのだろうな、と。「よかったよ。頑張ってね」の気持ちの代わり。優しいメッセージと共にサポートが届くと、嬉しいを通り越して、ちょっと恐縮してしまう。
私なんかに、いいんですか?あなたの大切なお金を使って、と。お金を稼ぐ大変さは身をもって知っているから。

有料記事は、この先もおそらく書くことはないだろうなと思う。
お金をもらえるほどのネタ(ノウハウ的なもの)がないこともあるけど、それ以上に「お金をもらうため」と思うと、仕事モードになってしまうから。自由に書きたいことを書けなくなってしまいそうだから。

自由に書いたものが、また誰か一人でもいいから、心に届くといいな。
そんなことを思いながら、今日、病院の待ち時間にこれを書いた。

※トップの写真は家の花壇から。寒い冬を越して咲き続けてくれるビオラをたくさん植えました。

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