(悪魔の証明)でわかること
自分がダンスをやっていた時に
引退(=事実上の業界追放)となるキッカケになったのが
「(ダンスの悪魔の証明)をしてしまったから」
それは
「ダンスの世界では評価基準は存在しない」ということ。
具体的に言うと
コンペ・なにかしらの大会での審査基準がないことを指す。
何かしらのダンスをやっている人間ならよく分かると思うけど
コンペ・大会に出場して順位が決まる時
正式な審査シートというのを見たことがあるだろうか?
多分歴史の長いバレエ・民族舞踊の世界でもこんなものないと思うし
あったとしても見たことのあるのはおそらく審査員だけだと思う。
なぜか?
(ダンスの悪魔の証明)
①「審査項目そのものが存在しない」
きちんと審査項目が明確になっている例として新体操というスポーツがある。
新体操では加点・減点がハッキリしていて
加点の場合だと
・ターン何回がプラス〇点
・手放しの状態で足を高い位置で静止出来る時間何秒でプラス〇点
・手具のキャッチが背面ならプラス〇点
減点の場合だと
・手具を落とすとマイナス〇点
・規定枠から出るとマイナス〇点
・レオタードの規定違反でマイナス〇点
とか他にも沢山あるけどこんな感じで決まっている。
ところが、「ダンス」という芸術になると加点減点どころか
技の規定自体が存在しない。
クラシックバレエのコンクールではキッチリ決まっているのかもしれないが
自分がやっていたダンスに限っては存在しなかった。
今まで一度も見たことがない。
「〇〇〇」と呼ばれている技というものはあるけれど
その技の具体的な定義というものがなく
ほとんどの場合「昔の人がやってたから」とかわけのわからない定義がされている。
多分ダンスの世界で偉い人だとか重鎮だとか言われる人間でも
これについて正確に答えられる人間は誰一人いないと思う。
それぐらい「技の定義」という概念がない世界がダンスの世界。
だから当然コンペや大会をやったとしても
そもそも「技の定義」がないので審査項目など設定できるはずがなく
ゆえに審査項目が存在するはずがない。
②「非公開である」
「技の定義」自体が存在しないので当然審査項目などあるはずがない。
だから「審査した証拠を提示できない」ことになる。
仮に審査項目が存在して審査をした証拠があるのならば
パブリックで公開してもなんら問題はないはず。
それが出来ないということはやはり「存在しない」ということになる。
「だったら大会で順位が決まるってどこで決めてるの?」
という話になるんだけど
順位だの評価だのっていうのは結局
「審査員の完全主観」によるものとなる。
極論をいうと「好きか嫌いかだけで決まる」
そして、どこで決められるかというのは「審査員同士の密談」となる。
これは外から見るとブラックボックスなので決して真相は見えないようになっている。
だから「非公開」となる。
①②より
「技についての定義自体が存在しない」
↓
「審査項目を設定できない」
↓
「審査する人間の完全主観で評価が決まる」
という流れになるので、ダンスの評価基準など存在しない。
よって、(ダンスの悪魔の証明)がされた。 ■
ちなみに義務教育の指導要領にもダンスは組み込まれているけど
現場教師へのダンス指導をやっている外部の人間も勿論
「技の定義を知らない人間がやっている」ということになる。
自分は義務教育に組み込まれることを早々よりよーーーく知っていたので
それを見越して(ダンスの悪魔の証明)をしたにも関わらず
それに猛烈に激怒して自分を業界から追放したんだから
現在の義務教育におけるダンスの惨状を見るたびに
「やっぱりね」としか思わないし
「どうにでもなればいいじゃん」としか思えない。
「そんなもの知ったこっちゃない」と本当に思う。
ただ、学生さんにとっては気の毒で可哀そうなことだとは思っている。
「定義のなされていないものを教えられ、主観だけで評価される」
「趣味」なら好き勝手にやるものだからそれでもいいけど
「義務教育」という「教育」なので
「教育」において、果たしてこれが許されるのか?
これによって学生さんにどういう影響があるのか?
多分、「物分かりのいい学生さん」はとっくに気が付いているはず。
それが答えだからみんなに教えてあげるといいと思う。
「ダンスの評価基準は存在しない」
そうすれば、
学生さんが「わけのわからない定義」で悩む必要もなくなり
精神的にもいいと思う。
ないものについてあれこれ悩む必要はない。
それに、逆解釈から拡大解釈をすれば
「存在しないのであればどうにでも捉えてよい」という意味になるので
「自分の自由に好き勝手にやってもいい」ということにもなる。
そう考えるとめちゃくちゃ解放されると思う。
「定義も答えもないのなら自分で作ればよい」
存在しないからこそ自由度がむちゃくちゃ高いわけなので
自分の思うように好き勝手にやればいいと思う。
もしもそれで怒られるのであれば、
先生に聞いてみればいい
「その定義って何ですか?」って。
誰一人として厳密に答えられない「必殺!悪魔の質問!」なので
あまりにも理不尽に怒られるのなら言ってみればいいと思う。
その時に返ってきた答えは勿論
「先生の主観」でしかない。
だいたい芸術・芸能・文化方面の
大会・コンペというのは「審査員の主観をぶちまけるモノ」なので
その事実を社会に出る前に知っておく点だけはいいのかもしれない。
そこで
自分には理解できないとバッサリ切り捨てるか
自由度の高い趣味として続けるか
それでも尚わけのわからない世界に憧れを持つか
それは学生さんの自由。
反面教師としてみればそういうメリットもある。
自分はこの(ダンスの悪魔の証明)をしたことで
業界追放のきっかけを得て
業界追放となる直前に「上達方法論」を発表して引退した。
普遍性のある完成された理論。約20年の集大成。
ことごとく理不尽さを嫌い、ことごとく矛盾を見抜いてきた
テクニックとスキルに拘り続けた自分らしい引き際だったと思う。
この(ダンスの悪魔の証明)をしたことで
その後5年間、自分は徹底的に「人間否定」をされ
ネット実社会での凄まじい誹謗中傷と実社会でのストーキングに発展した。
(ダンスの悪魔の証明)を発展させると「人間否定」となるそうで
「人間否定」とは
ネットの世界では
誰かもわからない人間から24時間どんな時も誹謗中傷されることであり
実社会の世界では
カルト宗教によって徹底的にストーキングされ人格否定をされ続けることであり
また、反社会的人間によって脅しを受けることを意味するらしい。
自分と同じ世間の善良な市民の皆さんもよく知っておいた方がいいと思う。
こういうことらしい。
「ないものが存在するという証明」
長らくヨーロッパでは「ゼロ」と「無限大」の概念が認められていなかった。
「ないものの存在を認めることは出来ない」
キリスト教の思想を冒涜するのとみなされ死刑宣告をされた。
実際に
「ないもの」= ゼロ もしくは 無限大
の主張をした思想家は当たり前のように死刑にされている。
それぐらい「おぞましい」とされてきた。
自分もおそらくこの状態だったんだろうなと思う。
「おぞましい」人間。
本当は死刑にしたいぐらいだけど、法律上殺人罪に問われるので
ならばせめて、業界から「抹殺」しようと。
そういうことだと思う。
しかし、ヨーロッパは結局ゼロと無限大の概念を認め
それによって飛躍的に数学が発展した。
現在当たり前のように使っているゼロも無限大も
もしもあのまま認められなかったらどうなっていただろうか?
と考えると
自分にとってダンス業界というのは「おぞましいもの」でしかない。
頑なに「ないものが存在する証明」を認めないというのは
かつてのキリスト教思想のヨーロッパとなんら変わりない。
自分は(ダンスの悪魔の証明)をすることで
その「おぞましいもの」に決別した。
心理の世界も全く同じだと「自分は」捉えており
ついこの間(心理の悪魔の証明)をしたばかりなので
その時点で「自分は」すでに見切りをつけている。
ただ
「ないものが存在する証明」を頑なに拒む世界で生きる専門家は
それが生きがいでありライフワークなので
人の生きがいを邪魔する権利はないとも思っている。
そこまで滅茶苦茶な発想は、自分にはない。
「精神医療」の世界はこれとは別になる。
(悪魔の証明)によって
自分は「目に見えない世界」を理解し、納得してきた。
「目に見えない世界」の事実と真実を知ることが出来て
本当によかったとも思っている。
拙い文章お読みいただきありがとうございました。
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