「創作なんて自己満足でしょ?」に悩むあなたへ、愛をこめて|中島智さんを引きながら
§
書くことに迷いはない。けれど、「なぜ書くのですか」と改めて問われると、返事につまる。また、こうやってSNSに公開する必然性となると、さらに不明瞭。
それらは突き詰めると答え難い問題で、おそらく私以外にもペンディングになっているひとがいるのでは...と推察されます。だって、SNSから離れていく人の数がとても多いらしいのだもの。
そこには、「なぜやめるのか」だけではなく「なぜ始めたのか」を自問させる何かがある。そう思うのです。
そのもやもやした謎に対する手がかりを、最近Twitterで見つけました。
§ §
中島智さん。芸術人類学(って初めて聞いた)をご専門になさっています。
美術界隈の方のよう。ですが、ものすごく理知的で、左脳も右脳も切れ者なのだろうなあと思わされます。
スレッドの続き↓
私が意識的に物語を書き、「呼吸」し始めたのは、小学6年生のころ。それまでも何かを書いていたのかもしれないけれど、「わたしもこんなふうな物語を書こう」と思い立って書いたのは、そのときが初めてでした。ある児童文学がきっかけだったので、はっきりと憶えています。
近くの文具屋さんで見つけた横書きの小さなノート―もちろん特別なお気に入りの1冊―に鉛筆で書き始めたときの感触や文字を、無意識に感じた深い喜び/癒えた感じも含めて、今も思い出すことができます。
ですから、私にとってはまさに、"その本を読んでしまったから"でした。
きっかけが児童文学だったので、今でも憧れがあります。でも、自分で書いてみると、どうもエリアが違うみたい。その理由は、どうやらこちらのようです。↓
↓スレッドの続き
補足としてこちら。↓
↓スレッドの続き
↑ちなみに、中島智さんは、創作におけるいわゆる「個性」は、その人の「精神」ではなく「肉体」ゆえに発現する、という考えをお持ちのため、棟方志功の近視に言及されているというわけ。
そしてこちらもおもしろい↓
錚々たるメンツを引き合いに出したので、なんだかおこがましいのですが、話を続けさせてくださいm(_ _)m
§ § §
「なぜ書くのか」「あれを読んでしまったから」。―それを「返礼」と呼ぶならば、まず考えられるのは、その物語を書いた作者に対して、私の書いた物語を捧げるのが筋だろうということ。
その作者さまは、どうやらご存命のようです(それだけでうれしい)。ですが、もし仮にその方に読んでもらえたとして、書くことをやめる気になるか、といえば、そうは思えないのです。
そう考えると、「作者」というよりは「その物語そのもの」への返礼、のほうがしっくり来ます。
ですが、「物語」は人ではないので、何も受け取ってはくれません。さて、どうしたものか。
上記のツイートを見かけたのは最近のこと。ですが、思えば、その萌芽はもともとありました。1年半ほど前でしょうか...私が(ありがたいことにnoterさんたちと対話をしながら)落とし所をつけたのは、こんなふうにでした。
じつにしっくりきたので、ひとまずそう定めました。
§ § § §
さて。つぎは、なぜ公開するのか、についてです。(結論が出たわけではないのだけど...。)
私はどうやら「ミューズの君」と呼ぶところのひと/もの/世界 に捧げるべく、小学生の頃から物語を書き、近年インターネットの川にその小舟を放してきたらしい。という諒解を得たわけですが。
SNSを始めるとき、おそらく多くの方が、「不特定多数の人に読んでもらえたらうれしい」「きっと、少数であっても、気に入ってくれる人もいるに違いない」というようなこと*も*ぼんやり考えるのではないかな?と思います。
私も、「あまり人気のない画廊みたいな所に絵を飾るように、ことばの花びらを集めておきたい」というような気持ちでしたが、「だれかに伝えたい(でも、それがだれなのか分からない)」気持ちもあったと思うのです。
手元に置いておくだけでは、誰にも伝わらない―そこは確かなことのように、そのときには思えたから。
そんなに一大決心をして始めたわけでもなく、「やってみようかな」「どうしようかな」「やっぱりちょっとやってみよう」「いつでもやめてよいのだし」という気持ちで。
そのときにはまだ「不特定」であった対象が、実際に運用を始めてみると、顔(アイコン)も名前も好みもある、ひとつの人格としての人、に変わり始めます。
お互いに行き来して、コメントのやりとりも始まると、なおいっそう、「不特定」ではなくなっていく。けれど、それは当然ながら、私が漠然と期待していた「ミューズの君」ではありません。
そこでふと「私はいったい何をしているのだろう」という戸惑いが生じるわけです。
SNSによって新たな人間関係が始まるのは、(適正な距離を取れれば)望ましいことのはず。交流を通して、じつに様々な気づきと勇気をいただき、数々の"化学反応"も体験してきました。感謝の気持ちは充分に持っているつもりです。
でも、それはものごとの順番としては、あくまで副次的なことなのです。本来はね。("本来"だけで生きているわけではないのが人間...だったりもするのだけど。)
§ § § § §
SNSをやめていくひとたちにはそれぞれいろんな事情や背景があるのでしょう。ご本人の中には、理由がはっきりしている場合もあるでしょうが、「なんとなく」やめていく場合に、ひょっとしたら上記のような理由もあるのかも?と思ってみたり。
こんな性根の私ですから「読んで下さる方の役に立つだろう」みたいな、(功利的といえば角が立つでしょうが)現実的な気持ちで書いているわけではありません。私が書ける事なんて、すでに太古の昔に書き尽くされていますから。拙い変奏曲に過ぎません。
「書くことをやめたら自分ではなくなる」「創作は私の生きてきた証」というふうにも、あまり思わない。
書くことは結局、「呼吸」にほかならないので、これからもずっと書き続けることになるのでしょう...。届いたかどうか永遠にわからないであろう恋文を書くように、心もとない思いも抱えつつ...。
ですが、"公開"についてはそれほどはっきりとした理由がないので、続けるかやめるか、今後どうすべきなのかはよくわかりません。(中島智さん、教えて〰〰🙏)
そういった状態ですので、noterさま方からすると、《星の汀の呼吸》に耳を傾けていただく必要も、おそらくないはずです。
オスカー・ワイルドが《芸術はなんの役にも立たない》といったのは、社会性に巻き込まれては困る彼自身の「呼吸」の気道を確保しておきたいがため。それほど芸術至上主義/耽美なわけではないようにも思えるのです。
SNSの危うさは、ときに自分の「呼吸」の仕方が分からなくなってしまうこと。そう感じつつも、私はもう少しnoteを続けていくつもりでいます。
更新頻度やどの程度積極的に交流するかといった対処療法的なことも考えていきますし、「SNSを通じて何をしているのか」という根本的な問いも、これから見定めていきたいと考えています。