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自分の過去記事が恥ずかしくて読み返せなくなる方、いませんか?

 昔の記事にスキがまとまってつくと、「何かあったな」と思う。

 今回は、中島智さんのこのポストのおかげでした。



元の記事はこちら。







「黒歴史」になる過去記事たち


 ↑該当記事ですが、細かな内容までは憶えていないのです💦

 はっきり憶えていないなら、読み返せばいいだけのこと──なのですが。

 一旦完成し、noteに公開した記事、つまりどなたかが目を通した記事を読み返すことが、恥ずかしくてできません。思い出すときは、「どこかに間違いはなかったかしら」「わかりにくい/冗長ではなかったかしら」「不快ではなかっただろうか」「そもそも、底が浅すぎるだろうし」と、到らない点ばかり気になってしまいます。これでは、しんどくなるのも当然ですよね。
 好意的なコメントをいただくと気持ちがずいぶん楽になるけれど、それでもやはり読み返すことができません。書いているときには、あんなに心が満たされていたのに。

 それを「1日経ったら黒歴史」症候群、と名づけてみましょう。

 要するに完璧主義だとか、自己肯定感の低さとか、学校のテストや受験で切り分けられながら育った子ども時代。そのあたりに端を発していることはわかります。
 また、もうひとつには・・・人間の数だけある《主観》を通して読んでくださるわけですから、読んで受け取るものも千差万別です。それを思うと空恐ろしい気がしてくるのです。街角のカフェに座を占め、たまたまそこに集った人々を眺めるとき、その人それぞれに背負ってきた過去や、これから迎える未来がまったく違って、同じものはかつてひとつもなかったし、これからもない、ということを思って、時々茫然としてしまうのと、同じようなことです。

 しかたがないので、できるだけ記憶にとどめておこう・・・と、公開する前に念入りに読み返してみるのですが、そんなに長い間憶えていられるはずもありません。累積で、記事数も500を超えたようですし。

 noteはまだこれからも続けていくはずなので、折り合いをつける方法を探しています。探しながらの3年半のnoteライフです。

 今回、私がその知力を尊敬する同時代人のひとりである中島智さんに目を通していただき、Xで紹介までしていただいたのに、その記事を読み返すことができないという事態。言及いただいたこと、共感してくださったらしいこと、は、快哉の花火が打ち上がったくらいうれしいのに。──この問題の根深さに、深いため息をついたのでした。

(「知性」でいいはずですが、フィールドワークに根ざしているからか、「知力」のほうがしっくりします ·͜· ♡)


 どうすれば読み返すことができるでしょうか。私にとっての、創作の守護神である《ミューズの君》(と呼んでいます)が、たとえぱバックハグとかしてくれて(=心理的安全性の担保)、「君らしく書けているから、大丈夫。読み返してご覧」って、同じ早さで一緒に読んでくれたら、きっと読めると思う(ずいぶん虫のいい妄想・笑)。「ここ、言い回しが微妙・・・」と青ざめても、「そういうこともありますよ」と慰めてくれるのなら。


 これは、ヘッセ『クヌルプ』のラストシーン、雪の中でたおれたクヌルプの前に、幻影のように現れる《神さま》と、ほぼ同じような存在なのです。読んだときに少々驚きました。


「いいかい」と神さまは言った。「わたしが必要としたのは、あるがままのおまえにほかならないのだ。わたしの名においておまえはさすらった。そして定住している人々のもとに、少しばかり自由へのせつないあこがれを繰り返し持ちこまねばならなかった。わたしの名においておまえは愚かなまねをし、ひとに笑われた。だが、わたし自身がおまえの中で笑われ、愛されたのだ。おまえはほんとにわたしの子ども、わたしの兄弟、わたしの一片なのだ。わたしがおまえといっしょに体験しなかったようなものは何ひとつ、おまえは味わいもしなければ、苦しみもしなかったのだ」
「そうです」とクヌルプは言い、重い頭でうなずいた。「そうです、そのとおりです。ほんとうは私はいつもそれを知っていたのです」

ヘッセ『クヌルプ』
高橋健二 訳


 ここに描かれているように、そういった《声》はほんとうはいつも身近にあるのだと思います。それを内面化することさえできたら、「黒歴史」問題は霧消するのでしょう。

 「黒歴史」症候群は自己受容の問題であること。裏を返せば、この世の誰に「承認」されても、それでは解決にならないだろうということにも、改めて気づかされます。



 ここで、「承認」というホットなワードを持ち込んだついでに、(脱線気味に)補足しておきます。今度は仏教から。
 お釈迦様は「苦しみをもたらしているものは、快(喜び)を求めてやまない〝求める心〟なのだ。」と考えました。

〝求める心〟は、発生後〝七つの欲求〟に枝分かれします。現代心理学の知識を借りると、七つの欲求とは、①生存欲(生きたい)、②睡眠欲(眠りたい)、③食欲(食べたい)、④性欲(交わりたい)、⑤怠惰欲(ラクをしたい)、⑥感楽欲(音やビジュアルなど感覚の快楽を味わいたい)、そして、⑦承認欲(認められたい)です。

草薙龍瞬『反応しない練習』より


 おおよそ欲求の強い順番に書かれているのであれば、ですが──「承認欲」が一番最後なのは、現代のようにSNSが発達してしまった状況では、よく心得ておくべきなのだろうと思います。たぶん、「たかだか7番目」という心持ちで。

 私がこの一覧で納得したのは⑤怠惰欲で(笑)、気に入ったのは⑥感楽欲。きっとnoter様方はこの⑥が強い方が多いのでは・・・?(◍•ᴗ•◍)✧*。

 この本は、「心得こころえ」を説くこの種の書籍の中ではかなり実践的だと思うので、ご紹介しておきますね。あらゆる悩みが消えていくかどうかは、さておくとして・・・(◔‿◔)
↓レビューの多さにもびっくりです。みんな悩んでいるのね・・・↓




文筆家たちも《自信のない人》だった


 精神科医・斎藤環さんが、『「自傷的自己愛」の精神分析』の中で、文豪や著名な漫画家たちの「自信のなさ」について、こんな例を引いておられます。


わたしは自信を持つときがありません。だから物を書いているのです。
(フランソワーズ・サガン)

けれども私たちは、自信を持つことが出来ません。どうしたのでしょう。私たちは、決して怠けてなど居りません。・・・(略)・・・けれども、努力と共に、いよいよ自信がなくなります。
(太宰治)

私の自信がわずかなりとも回復されるのは、会心の文章が書けた瞬間と、その後の数日間ほどです。
(斎藤環)

斎藤環
『「自傷的自己愛」の精神分析』より


 『進撃の巨人』の作者・諫山創いさやま はじめさんについても、「インタビューでもしきりに『運が良かっただけ』『今も自信がない』等と発言し」・・・(略)・・・「諌山氏の『自信のなさ』は、かなり安定して揺るぎないものであるように思われます」(前掲書)と分析されています。


 こうした名のある方々でさえ、こんなに自信がないわけですから、ましてや私のような素人に自信が持てるはずもありません。──というよりもむしろ、斎藤環さんが述べておられるように、他者による評価によって自己肯定感が高まるわけではない人々というものが確かに存在している、ということなのでしょう。

(古今東西の「だって自信ないんだもん名言集」でもつくりたい気がしてきました・・・心が慰むだろうなあ・・・)



 斎藤環さんは続けて、こう考察を進めます。

 繰り返しますが彼ら(※)は、「自分がダメであることに関しては、誰よりも自信がある」ので、その自信までも否定され傷つけられたくないのです。

(※)自傷的自己愛の持ち主のこと

(自信のない人というのは)そういう意味で、自分自身についてずっと考え続けている。だとすれば、それは否定的な形であれ、自分に強い関心があるということになります。それはまぎれもなく、自己愛の一つの形ではあるでしょう。

前掲書より


 「自己愛の強い人たち」の中に私も片足を突っ込んでしまったわけです・・・💦

 「自己愛が強い人」というと、イタい人のように聞こえるかもしれません。ですが、斎藤環さんの定義によると「自己愛」というのは「自分自身でありたい欲動」のこと。

 私などは、まさにその欲求が強くて、思えば大学の卒論に『ハムレット』を選んだのも、その要素ゆえだったのでした。
 そんなわけで、それなりに"年季の入った"欲動なのですが、その私に言わせると、「自分自身でありたい」というのは、「私らしい私でいたい」というのびのびした感覚とはかなり違います。どちらかというと、「ほんとうの自分ってなんだろう」「ほとんどすべてを取り去って、最後に残る〈私〉ってなんだろう」を探求し、「その〈私〉でありたい」と望む気持ちです。常に自分の立つ足場を疑い、なにかを達成しても「それもかりそめのことにすぎない」と、相対化し、初期化し続けてしまう欲動のことです。

 それは時に自己否定につながり、自信を失わせます。それを、斎藤環さんは「自傷的自己愛」と名づけたのでした。


 ご興味のある方に向けて、ご紹介しておきますね。




〈有限〉である、ということの《儚さ》


 さて、冒頭のポストに戻ります。中島智さんは、続けて、このように述べておられます。(こちらが真髄✨️)

 ここでは、自分が本当の意味で大切にすべきである《自分自身》をちゃんと大事にする、という視点から、自分のつくった記事も大切にできたらいいな、という示唆として、読んでみたいと思います。




 いびきでも、歯ぎしりでも。
 ・・・つまり、拙くても、仮に間違っていても、夜に吸い込まれるこだまのように頼りなくても。
 寝息の一回一回のようにかけがえのないもの、それがなくてはたちまちのうちに死んでしまうもの。──そういう種類のものなのですね。

 たぶん、「黒歴史」問題は生来の性質によるものなので、なかなか解決しにくいのだろうと思います。おそらく特効薬はなく、常備薬を飲みながらしのいでいくタイプの事柄なのでしょう。それは、定期的に関連の本を探したり再読したりしながら、運動習慣のように繰り返し、「1回切りの存在であること」「自分もある種の他者であること」に注目し続けていくより他にないのでしょう。


 最後に、ミヒャエル・エンデ『モモ』から、この有名な箇所を引用しておきますね。

 モモはとくべつすばらしい聞き手でしたから、ベッポの舌はひとりでにほぐれ、ぴったりしたことばがみつかるのです。
 「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
 しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
 ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
 「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
 またひと休みして、考えこみ、それから、
 「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」  そしてまたまた長い休みをとってから、
 「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」

ミヒャエルエンデ『モモ』
大島かおり 訳




[おまけ]中島智さんのポストより


 時々、「これはすごい!」と思うものを見つけると、無性にnoteに置いておきたくなるのですが、それをするならXで、が本筋かなと、思い止まります。
 ご紹介したいものは数あれど・・・
 今回の話題に関連があるもの/ないもの、いろいろ集めました。

↑この「イデア」は、プラトンのいうイデアでもいいのでしょうし、「概念化されたもの」という意味かもね?と個人的に思いながら読みました。


キリがないからこのへんで自重します(>_<)



タイトル画像は、以前写真からつくったイラスト?です。内容的に、関連するイメージが特になかったので、選んだ理由は「なんとなく」です(^^ゞ

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