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信じることの危険性—親が子供に押し付ける『正しさ』の代償

 目に見えないものを信じることは非科学的だという方もいると思います。

 しかし、見えないものであっても、実在しなくても、『自分の行動を律することができる』なら良いことかなと思います。むしろそこが重要で、眼に見えなくても、実在しなくても、どうでも良いことかと思います。

 そういった意味で、信心深いということは良いことだと思います。

 しかし、度を過ぎると良くないなと、ふと思ったので記載しておこうと思います。


古臭い言葉を信じている親

 オイラの親は「バチが当たる」とか「神様が見ている」とか言い、眼に見えないものに怯えさせ、自分の言うことを聞かせていた時もありました。

 母親はどちらかと言うと信心深い人で、小学生の時は良く七福神巡りなるお寺巡りに良く付き合わされ、お坊さんからお供物をいただいていた。

 そんな母親なので、言うことも古臭いものが多く「〇〇みょうじ家の跡取りなんだから」とか、「〇〇みょうじ家が潰れる」「親の死に目に会えない」とか、いつの時代のお姫様?って聞きたくなるような人なので、脅し文句が多く、人の悪口や不平不満も多かった。

 とかく、親の世代はその傾向が強いと思うが、オイラは昔からこう思っていた。

「家が何してくれるって言うんだ?」

うちの家系は由緒正しい家でもなければ、武家の出でもない。栃木で夕顔かんぴょうを作っている農家だった。そこは長男さんが継いでいるのだが、恐らく祖父は次男だったのだろう。東京に出稼ぎに来て家庭を持ち、父が生まれたと思う。

他人への要求水準が高すぎる文化

 日本人は要求水準が高いということを、SNSか何かで見た覚えがある。だからこそサービス業などは世界的に見ても品質が高いものになっているのかもしれないが、それが赤の他人にも期待する原因であるというのだ。

「自分が正しいと思うものがルール」であり、それを破った相手(他人)が犯罪者でもあるかの如く、怒りをあらわにすることもある。昔の時代劇さながら、悪は必ず退治されるのだと言わんばかりの人もいる。

 オイラの母親も同じように「自分の正しさ」を言っていただけかもしれない。それは自分の中だけの正しさであり、何を根拠に判断していたかと言えば何もないと思う。根拠なく『悪い結果になる』ことを信じているからだ。

自分だけならそれでいい。
でも、子供や他人に押し付けるのなら、それでいいのか?

正しさだけを追求したら、思いやりが無くなる

 こういった思考は危険だとオイラは思う。自分が信じたものが「間違っていたら、いけないもの」になるからだ。その結果、自分が言った通りにならないと、気が済まなくなる。「バチがあたる」と信じていれば、「バチ」が当たらないと気が済まないのだ。

 世の中そんなに単純にできていないし、私腹を肥やす奴もいれば、平気で悪いことをする奴はいる。しかし、バチなんて当たらないほど不公平なのは当たり前なのだ。それが受け入れられないからこそ、不平や不満、文句や悪口も多くなるのだろう。

 この「信じたものが間違っていてはいけない」思考に囚われると、相手が必ず悪い目にあわなきゃ気が済まなくなる。

 そこから歪んだ正義、ゆがんだ理論が出来上がり、関わる人にとって「迷惑な事」を引き起こす。これが「パワハラ」や「モラハラ」、「老害」の根源ではないだろうか?

正義感という害

 オイラの住む町はご老体が多い。ご老体が多いからこそ、融通が利かない老害をよく目にする。

 オイラの例をお話しすると、車も人通りもない幅5mくらいの道路をオイラは自転車で帰宅途中だった。前方は遠くにT字路がある突き当りだった。そのT字路のから一旦膨らんで反対側を走り始めた。このままで部下らずに済むと思ったのもつかの間、オイラを視認するとその自転車は、オイラが走行している道路の端にワザワザ変えて走り始めた。まるで正面衝突でも狙っているかの如く。。。

 わざわざ道路の反対側にいたオイラ側に移動してきたのは、60代後半の小柄でやせ型、濃いサングラスに黒の帽子、マスクのフル装備のご婦人だった。曲がった直後からオイラを視認してからワザワザ進路変更してきたのがわかったほどだった。

 「ふらついただけかな?」と思ったが、進路を変えるそぶりもない。まさかと思ったら、オイラの右側のスペースの無いところに入り込むようにオイラに突っ込んできた。

 とっさに避けて事なきを得たが、どういう思考か?

 自転車は左側通行だから、右側を走っている奴が悪い、という理論で「お前がどくべき」という思考になり、わざわざ突っ込んできたのだろうか?引導を渡してやる、とでもいうかの如く。真相はわからないが、何を考えているのだろう。180cm超えの86kgのオイラが引かずに真っ向勝負になったら、壊れるのはどちらかを考えた方が良い。引導を渡されるのはご老体の方ではないのか?

 ハンドルはまっすぐ操作していて、フラフラもしていない。壁とオイラの隙間は15cmくらいしかないはずなのに、フラつきもせず、しっかり運転していたので、認知症やその他の障害があったわけでもないだろう。ましてや高齢過ぎる外見でもなかった。

 そもそも、交通ルールとは?
 走行が逆であっても、お互いが安全に通り過ぎることができるのなら、後から来た自分がワザワザ進路変更をし、ワザと突っ込むなどの危険運転をしなくていいはずだ。

 恐らく歪んだ正義感に支配されて生活している人だと思う。

 だからと言って若い人が全くこういう行為をしないかと言えば、そうでもない。長くなったので、別の機会があれば記事にしたいと思うが、柔軟性が無いことの弊害は、確実にあると思う。

自分が加害者になっていることがわからない

 こういった考え方は正しさだけを求めて、自分が加害者になることに気が付かない。このような論理は本当に危険だと思う。パワハラ、モラハラ、老害などは、このパターンのような気がする。

 なぜこういう事を持ち出したかと言うと、子供さんが精神疾患になった時、この思想を持った親御さんが、同じような理論で責めるのではないかと思っている。

 あくまで仮説ではあるが、親御さんにとっては自分の理論が間違っていることなど、あってはならない。親が子供より身分が上、もしくは親だから子供が言うことを聞くのが当たり前、という思想なのかもしれない。

 もしかしたら、その親の親(お子さんから見て祖父祖母)に当たる人が同じような思想で育ててきたのかもしれないので、親もまたかわいそうなのかもしれない。

ただ・・・・時代が違う。今はそんな価値観で生きていけるほど甘くはない。

 しかし、だからと言って、精神疾患が良くなるわけではない。自転車の例じゃないけど、オイラが引かなければ双方良い事は無い。ましてや自転車などの「どうでもいいこと」ではなく、子供の生き方や人生の過ごし方に関わることなのだから。

 この場合、怪我だけでは済まないこともあるのではないだろうか?両親や祖父を子や孫が・・・・などのニュースは珍しくない。こういったニュースを見ても、まだ自分が間違っていることに気が付けないのなら、変化を受け入れることができない怠慢な考え方でしかないと思う。

信じて疑わない「正しいこと」のデメリット

 押しつけの子育ては、自分が信じて疑わない「正しい」ことが、信じたとおりの「正しい結果にならないこと」が許せない。これが危険な思想に繋がっていると思う。

 「自分が育てられたのと同じように育てる」ことが多くなることも、いまだ旧態依然の押し付けの子育てが減らない一因だと思う。親は「それ」以外の育て方を知らないのだから仕方ないかもしれないが、知識は増やせるし、情報は集めることができる。それに柔軟性はいつの時代でも必要な事ではないだろうか?

 押し付ける気持ちになるのは、その当時に自分も反抗したくなった背景があるのではないだろうか?押し付けられたことによる「やるせなさ」があったのではないだろうが。

 それでも自分(親)が「信じ」て、素直に従ったからこそ、押し付けられたものが間違っていては、自分の人生そのものを否定されるようで、許容できないのではないだろうか?

その許容できない姿勢が、人間の器の小ささとなって各種のハラスメントや老害となり、一番接する機会が多い「実の子」が苦しむ原因になるのだろう。

そろそろ、デメリットばかりだと、気が付いた方が良いのではないか?それこそ、バチが当たるだろうから。


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