【感想】所有権と自己決定権の神聖視
世界は贈与でできている
資本主義の「すきま」を埋める倫理学
近内 悠太(2020年)
啓蒙主義、市民革命、近代化 etc…
これらの思想的潮流や出来事や共通する考え、そして現在も非常に強力な影響を持つ考えがある。
それは、所有権と自己決定権の神聖視だ。
所有権のイメージを説明するには、ロックを想起すればいいだろう。
封建社会、身分制度、あるいはキリスト教的価値観により、近代以前はほとんどの人間に所有権なんて概念はなかった。
しかし、ロックらの出現によりそれが突然一般人に渡され、それ以降、これ以上素晴らしいものはない、この世で生きる上で何より大事なものだ、という価値観が広がった。
こう言っても大きく間違ってはないだろう。
これは、ほぼダイレクトに現在のリバタリアニズムに引き継がれている。
私の所有権や労働の果実について、その一部であろうと、誰かが私の合意もなく取っていくことは絶対に認められない。
ただ別に、私はこの世の全てを独占したいわけではない。なんなら、自分に必要以上のものがある場合(余剰がある場合)、それを他者と分け合うことも厭わない。
だがしかし!どれだけ自分が必要とするか、どれだけが余剰なのかについて、自分以外が決めることは絶対に許さない。なぜならば、それを少しでも許すならば、所有権という考え方が根底から揺らいでしまうからだ。
リバタリアニズムの感覚について乱暴にまとめると、こんな感じだろう。
自己決定権は、自分のことは自分で決める=「自由」を大切にする立場。
それは人間に備わる理性を限りなく尊重することでもある。ルソーの社会契約論を想起すべし。
自分の理性、自由、決定権とともに、他者のそれらも尊重する。この考えから、必然的に誰かと誰かが理性的に結んだ約束=契約にも非常に価値を置く。同じように、公平な立場同士での交換行為=経済活動と、その活動の結果も尊重されるべきと考え、第三者の過度の介入を忌避する。
右寄りのリベラリズム、あるいはロールズの正義論には、自己決定権とそれに基づく社会契約の考え方が色濃く残っている(無知のヴェールは社会契約の話だ)。
自己決定権の神聖視が意味するのは、①パターナリズムの否定(危険性を知ったうえでノーヘルでバイクに乗るのは、誰にも迷惑かけない限り個人の自由だ)、
そして、②ある程度の貧富の差を許容すること(自由で理性的な交換行為=経済活動の繰り返しの結果、良いものを提供した人に富が集まるのは当然だ)、の二つだ。
近年よく聞く、ケア倫理が疑義を呈しているのは、本質的には上の二つの前提、所有権と自己決定権の神聖視、だと思う。
ただ、ケア倫理は所有権も自己決定権もそんなものは幻想だというほど過激な主張はしない。それらの重要性はある程度認めるが、それらの神聖視=無制限の尊重を否定する。
なぜなら、まず所有権については、「人間が何か(他者、世界)を完全に独占的、排他的に所有する」という考えは事実に反するから。
そして自己決定権については、①人間は理性を行使することにより自らが真に欲するものを認識することができる(すべき)、②その欲するものについて他者と客観的に交渉=コミュニケーションをすることができる(すべき)、という二点は限定的な事実だからである。
おそらく、現在の新しいとされる思想や哲学の多くが、所有権と自己決定権の神聖視について「待った」をかけ、「そうじゃない方」の考え方を提示しようとしている点で共通するのではないか。
たとえば、この著者の贈与の概念、本書にも援用されていたサンデルらのコミュニタリアニズム、COTENなどの言うポスト資本主義、斎藤幸平などのマルクス再評価などが挙げられそう。
フランス革命とかルソーの時代からそろそろ250か300年くらいたとうとしている現在。長いこと絶対的な価値観だった所有権と自己決定権の無限の拡張という想定に無理が来ているのだと思う。
しかし、これからの時代を規定する(支配する)思想哲学が何になるのか、ここで挙げた何かしらなのか、そうでないのか、まだ今日時点では確定していないように思える。